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非核神戸方式は何処へ

 神戸港に入港する外国軍艦に非核証明書の提出を義務づけ、提出がなければ入港を認めない、いわゆる「非核神戸方式」がはじまったのは 1975 年。平和な港を求める市民の世論と運動を背景に、市議会が全会一致で行なった決議を市は 50 年間守り通してきた。この間、米艦船は一度も入港していない。核積載の有無を明らかにしない政策のアメリカは非核証明書を提出できないからだ。ところがこのほど市長は米掃海艇の入港を許可した。日本の外務省は当時も現在も、アメリカから日米安保条約にもとづく事前協議の申出がない以上核は登載していないと思うという態度。市長はこの外務省の見解にそって入港を許可した。神戸方式は、非核宣言自治体のひろがりをはじめ自治体の平和政策に大きな影響を与えてきた。 1990 年代の末、周辺事態法との関係で自治体の港湾管理権が危ぶまれたとき、実現こそしなかったが、高知県や函館市などで、神戸方式を条例化して法的に強化する 運動が盛りあがった。今度の神戸市の入港許可を機に再び非核条例化の動きが浮上するのか、それとも神戸方式がなし崩しになっていくのか、自治体の非核平和の政策と運動は大きな岐路に立っている。関心ある方は、拙稿「非核条例化は自治権の行使である」世界1999年5月号を参照。

十五夜さえて月見想

 3、 4 日低温と曇天が続いたが昨日は快晴。一気にフクジュソウが開花した。今春開花 2 番手。ズングリムックリで陽光を一杯受けて力強い。これ以降はフクジュソウ( 2 )のように開花順に番号をつけよう。そのそばに昭子の友人、遠田由美子さんのところからきた実生のナナカマドがある。彼女は大倉山と宮の森のシャンツェに道が分かれる円山の閑静な住宅街で「月見想」という屋号の茶房を営んでいる。「草」ではなく「想」とした発想が奥深い。もちろん庭にはさまざまな種類のツキミソウがあるが、極めつけは、二階の壁いっぱいの窓から、山際から昇る月が見られることだろう。私たちは開店のころは元気だったから、しばしば楽しませていただいた。わが庭からスグリの苗と拓北の森の枯れ枝でつくった手づくりのバードテーブルを進呈したこともある。会いに行きたいが…いまはままならず。思いつき一句→「宵を待ち十五夜さえて月見想」「月見窓十五夜さえて月見想」。そこから車で 10 分、藻岩山の伏見では横浜以来の友、蔵隆司さんが喫茶店を開いていた。店にはいつも素晴らしい音響のクラッシック音楽が流れていた。私たちは 2 つの喫茶店をハシゴして楽しんだ。蔵さんはいまはリタイア。  

手帳は買えども予定なし

   まもなく年度が替わる。現役で仕事をしていたころは1月1日からはじまる「年」よりも 4 月 1 日にはじまる「年度」の方が大きな意味をもっていた。その理由は説明を要しないだろう。けれども仕事をリタイアして年度区切りの意義が低下すると、それまでの年度手帳はいつしか年手帳に切り替わった。こうしてスケジュール管理の第一段階の変化が起こった。そのうち年手帳は厚手のものから薄手のものに変わった。記入すべき事柄自体が減ったのだから当然であろう。手帳買えども予定なし、これが第二段階の変化。そしていま第三段階に移行している。手帳に記入する内容が「予定」ではなく「備忘録」に近くなっているのだ。わが家には壁掛けの手製のカレンダーがあって月初めに予定を書き入れている。その段階では記入事項は少なく白紙に近い状態なのだが、月が終わってみれば、書き込みで埋め尽されている。その日の思いつきや予定になかったことが次々に起こり、それらのことをそのつど備忘録的に書きつけているからだ。手帳も同じである。この先どうなるか。第四段階の変化は手帳自体を見なくなることだろう。その時期の到来はもう少し先であってほしいが、確実にやってくる。  

町内会、対面総会に戻る

 3 月 23 日、町内会の総会。コロナの影響で最小限の事項を書面で承認してきた総会が 5 年ぶりに対面総会に戻った。 169 世帯中 36 世帯の脱会報告には衝撃をうけた。理由は①高齢化による役員引き受けの困難性、②町内会館の管理費負担の評価、③ゴミステーションのあり方などである。だがこれが真の理由とは思えない。 5 年のブランクによって会員相互の意思の疎通が希薄化して課題の共有が妨げられ、これに高齢化が拍車をかけたといえないか。脱会者も今後単独ではありえず、脱会の理由とした問題をふくめて集団的な解決が必要になろう。とすれば従前の 169 世帯全体でみれば、自家撞着に陥っていることになる。脱会者が理由に挙げている問題は、脱会しない会員にも共通の問題だからだ。とりあえず総会ではこの大量脱会を奇貨として、私たち自身も課題解決に力を注ぐとともに、脱会者に対しても情報や交流を密にして復帰を願う心構えを確認した。初代会長の私は、入脱会の自由と情報共有、役員固定化の防止、近隣者・団体への便宜供与などを運営原則とした。あれから 32 年、人々の生活や地域の様相、また市の地域対応も大きく変化しつつある。これについては別の機会にふれることにしたい。

ネズミと一緒にドライブ?

 そろそろタイヤ交換の時期。去年初冬、ネズミ騒動に見舞われた。わが家の車庫は住宅組み込みだから気温はマイナスにならない。その快適な車庫にネズミが侵入。秋に収穫した野菜類を保管しているから餌はタンマリ。ネズミはすぐに食べはじめた。そこで 2 度も車庫を空にして捜したが発見できない。生け捕り用の罠を購入して間もなく大きなドブネズミを捕獲。数日後、タイヤ交換のために業者に車を引き渡した。驚いた。エンジンルームにネズミの巣材がぎっしり詰まっていたというのである。ということは捜したとき見つからなかったのは車の中に潜り込んでいたからで、さらにネズミを乗せたまま何度か運転していたことになる。よく事故が起きなかったものだと胸をなでおろした。ところでそのネズミ、殺傷は嫌だから森に放逐しようと決めて、罠のまま庭の隅に置いておいた。ところが翌朝、罠ごと消えてしまった。不思議に思いつつ数日たった。なんと家から 10 数メートル離れた森で見つかったのだ。キツネが罠ごと森に運んで、自然の摂理にのっとって処理してくれたのである。頑丈な罠だからキツネも悪戦苦闘したに違いないが、騒動に幕を引いてくれたキツネに感謝。

森とウバユリと境界紛争と

   昨日は防風林のことを書いたが、この西側に約6 ha の通称「拓北の森」がひろがっている。何十年も前に原野商法で切り売りされた農地。市街化調整区域だから開発を免れ、そこに風や小鳥が運んだ木々の種が芽を吹き大きな森に成長した。借景ではあるが、私たちには風雪を和らげ心をなごませてくれる宝の森だ。移り住んだころ、森の南側にウバユリの小さな群落を見つけて感動した。ウバユリが故郷の村の歴史に関係があることを知っていたからだ。明治 32 年、浦臼村が月形村から分村。村の境界はトレプタウシュナイ川とされていた。だが樺戸山系から石狩川にそそぐ川は境界付近に複数ある。どれが境界の川かわからない。大正になり入植者が増えると境界紛争に発展。アイヌ語でトレプタは「ウバユリ」、ウシュは「多い」、ナイは「川」を意味する。すなわち境界はウバユリが繁る川ということで、両村の役場の吏員と住民は総出でウバユリの川探し。幸い川が特定できて一件落着。私はこの川から 200m 離れた浦臼側の番外地 (入植者に払い下げた樺戸監獄用地) で生まれた。子どものころトレプタ川は粗末な竹竿でもよく釣れた。ウバユリはいま拓北の森全体にひろがり、庭にもどんどん越境してくる。一度は球根を食してみたいと思いつつまだ果せていない。

宅地の来歴知って複雑な思い

  陥没や液状化、地盤沈下、土砂崩れなどが問題になっている。だが住んでいても、とくに移り住んだ場合は、何か特別な契機がないかぎり土地の事情や来歴を知らない。ここに越して間もなく、老舗の理髪店で、拓北小学校の先生たちが作成した『わたしたちのまち拓北』( 1982 年)という冊子に出会った。早速拝借してコピー。私たちの町内や拓北の歴史、気候風土などを知るのにとても参考になった。校舎の屋上から写した風景を見ると、どこまでも田畑がひろがり農家が点在している。そして目を転じてアッと驚いた。学校のすぐ北側に写っている防風林は、いま自分たちが住んでいる地区なのだが、なんと元々あった防風林を半分つぶして造成したことがわかる。転居した時点でそのことは知らない。さて転居直後、札幌市はこの残された幅 12 mの防風林を皆伐して芝生化する工事をはじめようとした。防風林に魅せられて移住した新住民はびっくり仰天、直ちに保全運動を展開。その結果一本も切ることなく運動は成功した。しかし、後に拓北小の冊子を見て、緑を半分破壊したうえに住んでいる自分たちが残りの半分を守れと運動をしていたことがわかり、これ以後は何とも複雑な想いを引きずることになった。けれども先生たちには感謝している。知らないままでいることは身勝手になりがちでもっと恥ずかしいことだから…。  

福島町の「議会だより」に学ぶ ( B町議会における講演会から)

福島町の「議会だより」に学ぶ  先ごろ道内の B 町議会から依頼があって議会のあり方について講演しました。そのなかでどうすればよい議会広報(議会だより)がつくれるかという話もするよう頼まれましたので、私は現在はたくさんの議会だよりを読んでいるわけではないのですが、これまで各地の議会とのお付き合いを通して抱いている議会だよりのイメージをもとに話しました。  それで、最初に「一見は百聞に如かず。とにかくこれをみてほしい」と、持参した 1 年分の「福島町議会だより」の内容を詳しく紹介しました。議員のみなさんは本当に驚いたようです。その真剣なまなざしを見て私はこれで今日の講演の目的は半ば達したとすっかり安堵し、以後は議会だよりの見方・考え方として私見を 4 点、一般論として話しました。   1 点目。議会だよりは議会の活動状況を住民に知らせるものですから、議会がよい活動をしていなければよい議会だよりはできません。読みやすく親しみのもてる編集技術も大切ですが、それも内容あっての話です。私の話を聴いて B 町議会議員が驚いたのは、議会だよりの外見的な体裁ではなく、載っている議会の活動の内容なの多彩さなのです。当然のことですが、「よい議会活動なくしてよい議会だよりなし」-この当たり前の認識をまず共有してもらいました。  福島町議会だよりには、他の議会の議会だよりと同じように、議員の一般質問や文書質問と答弁の内容、議決事件の一覧と各議員の賛否の状況、予算・決算の論点と審議内容、各議員の会議等への出席状況、議会費の使途や議員報酬の状況、自治体視察の報告などももちろん丁寧に掲載しています。これらは議会として住民に対して行なうべき最低限の報告といってよいでしょう。けれども B 町議会議員の関心は別のところにあったようです。  ではそれはどんなことかといえば、例えば、 2 つの常任委員会における議員間討議の活発さです。委員の議論をまとめて年に 30 項目もの多数の委員会としての政策提言を行なっています。また、議会基本条例の全条項について実施状況を毎年点検し改善する、総合計画の事業内容を変更するたびに審議・議決する、一般質問に対する長の答弁内容を追跡する、全議員が毎年の活動目標を細かく公約し前年度の自己評価と一緒に公表する。他に高校生と議会の対話、議員のなり手不足問題につ...

議員間討議の効用―競争から協奏への飛躍 (別海町議会一般質問検討会議見学記)

  議員間討議の効用―競争から協奏への飛躍   2025 年 2 月 18 日、別海町議会の「一般質問会議」(以下「検討会議」)を見学する機会に恵まれた。私にとってはたいへん有意義な見学であった。「一般質問」は、個々の議員が長など執行機関に対して行なうもので、町政が町民のために適切に行われているかチェックし、また必要な政策を提案する場でもある。年 4 回の定例会の期間中に、 1 人当たりの持ち時間は 1 時間(答弁との往復)で、一問一答方式で行なわれる。 検討会議は、この一般質問に先だって行われる。質問者があらかじめ質問のテーマと目的、質問事項とその内容を文書にまとめて公開し、これを全議員の出席のもとで、各議員からさまざまな感想や補強意見をもらい、これを参考にして質問の内容をさらに充実させるというものである。検討会議はもちろん町議会の常設的なシステムとして位置づけられている。 別海町議会には、土山希美枝氏(法政大教授)と西科純氏(元芽室町議会事務局長)の 2 人のサポーターがいる。町議会と 2 人の関係にはいわれがある。数年前、西科氏が代表の議会技術研究会が開いた議会フォーラムに参加した議長らが、このときの土山講演に触発されたことが検討会議をはじめる契機になったという。その後、 2 人は別海町議会のサポーターになって、この日の検討会議でも実践的で適切なアドバイスを送っていた。  検討会議はもちろん住民や報道機関に公開しており、この日も 2 社が取材にきていた。こうしたやり方を続けているうちに質問する議員が増えて、 16 人の議員中、今回は 8 人が質問する。 10 人を超えるときもあるという。質問者数の確保に悩む議会が多いなか、別海町議会にける質問者数の多さには目を見張るものがあるが、検討会議が各議員の質問意欲と自信の向上に大きく貢献していることは間違いないと思う。  私が検討会議に注目するのは、これにより「議員間討議」のすそ野がひろがることに大きな期待を寄せているからである。議会の最高規範とされ全国に拡大した議会基本条例には、最大公約数的にいえば「住民が参加する議会」(住民参加)、「議員同士が議論する議会」(議員間討議)、「政策を提言する議会」(政策提案)の 3 つの理念を掲げている。  このうち議員間討議がカギでこれが実現しなけれ...

動物たちの残りをいただく  

   畑はまだ 50 ㎝の残雪。2,3日前の午前中、土に活けておいたダイコンを掘り出した。ところがなんと、半分はネズミが食べていた。みずみずしさは保たれていたので、残りのきれいなところを持ち帰って 10 キロほど麹漬けにできた。麹漬けをはじめて数年、少しずつ腕があがっていまは美味しくできる。それにしても「ネズミめ!」と心がいきり立ったが、とっさに猪風来さんの格言?が頭をよぎった。彼は野焼きで縄文土器を再現する陶芸家。石狩の黄金山の麓で 3 反歩ほど畑を借りて自給自足していた。私たちは何度も遊びにうかがった。うっそうとした森に囲まれているから、畑はキツネ、タヌキ、シカ、ネズミたちの格好の餌場になる。でも猪風来さんは沈着冷静、泰然自若。さすが縄文の陶芸家だ。曰く「先住者の彼らが先に食し、その食べ残しを私たちがいただくと思えばいい。彼らは決して食べつくさない」。自然観というか達観というか、心の沈め方に感服した。あれから私は「食害」という言葉をあまり使わなくなったが、昨日の心は少し穏やかならず。まだまだ猪風来さんの域にはほど遠い。午後、思い出しては苦笑しきり。猪風来さんはその後故郷の広島県に帰ったと聞く。

「忘れ名草」がまた増える

 三寒四温。暖かい風も吹いて一気に春はすすむ。昨日、今春一番乗りでスノーボールの可憐な白い花が開花した。これを初めとして花をつけたまま雪を迎えるキクとヤグルマソウまで、100数十種類の草花が庭を彩る。高価な園芸種などなく、多くは 20 年以上前に昭子が道内各地や近隣の友人からいただいたり交換した野の花。だから花が咲けばその向こうに人々の笑顔やかの地の風景が浮かんでくる。庭にいながら、さながら道内旅行の気分も味わえるという寸法だ。いつだったか、近所の友人、田口睦子さんがわが家の庭を「春の庭」と名づけてくれた。これからフクジュソウ、エゾエンゴサク、カタクリ、ニリンソウなどが一斉に咲き出す。なりゆきまかせだから、花々は思いおもいに住み心地のいい場所を見つけて移動し、定住している。こんな庭だが、加齢とともに、花の名前を瞬時には思い出せないことが多くなってきた。昭子としばし対策?を練った。その結論、名前を思い出せない花はみな「忘れ 名 草」にしよう…。「忘れ 名 草」一色になったときは庭を卒業するとき。川柳一句→「わが庭に忘れ 名 草がまた増える」。そう自嘲しながら今年もまた庭を楽しみたい。  

「サヨウナラ」はいわない

  1 月に川村喜芳さんが逝去された。川村さんは 1991 年に道庁の部長職を退任後、北海道町村会の常務理事を 10 年勤められた。北海道の地方自治を豊かにしたい。その一心で持ち前の探究心と構想力と行動力を縦横に駆使して、大勢の仲間と新しい課題にチャレンジされた(本ブログのラベル「窓明浄机」に追悼文掲載)。私はこれを「川村ワールド」と呼んだ。有志が集って 6 月に札幌で偲ぶ会を開催すべく目下準備中。親交を重ねた山嵜逸雄君も逝った。学生時代にペギー葉山がギターリストとして自立を薦めたほどの腕前だったが、「ギターは趣味」と製薬と医療の世界にすすんだ。墨田区のオンボロアパートのころから互いの家族を連れての知床旅行まで、 50 年にわたって付き合は続いた。彼が最後に遺した言葉→「先に逝くがしばらく追ってくるなよ」。山嵜君を偲んで友たちが 5 月に東京のお茶の水で集う。もちろん私も参加する。仲井富さんも。 1970 年代から日本の反公害住民運動のネットワークを築かれた人だ。人柄、文才にもすぐれ素晴らしいエッセーを送り続けてくれた。友人や後輩たちが早速、遺稿集『未知との出会い』を出版。さびしいが私はみなさんにサヨウナラはいわない。心のなかで生き続けてくれるし、それにもうすぐコンニチワをいうのだから。  

連動型事業別予算のすすめ(自治日報2020年1月3・10合併号より転載)

  連動型事業別予算のすすめ  議会はまもなく次年度予算の審議の時期を迎える。昨秋、私たちの議会技術研究会が開催した新人議員向けの財政講座で講義するために、私自身の再学習という意味から、いくつかの自治体について首長が法律にもとづいて議会に提出する予算・決算書と事務事業評価書(主要な施策の成果)を調べてみた。主眼は、現年度と過年度の事業内容がこれらの政策情報から読みとれるか、ということだった。 歳出予算書は「款項目節」と「説明欄」から成り立ち、このうち議会が議決するのは款・項という、いわば政策の大分類・中分類、目は財源の区分で、これらからは実施する事務事業(以下「事業」)名とその内容はわからない。節は地方自治法施行規則に定めた28の歳出区分を項単位に総括したもので、ここにも事業は示されない。そこで予算書で事業がわかるのは説明欄だけということになるが、その記載内容は自治体によって実に区々である。 私は事業内容がわかる予算書であるためには、説明欄を自主的に活用して、すべての実施事業とともに、それぞれの事業ごとに該当する節の歳出区分とその金額を明記する、いわゆる事業別予算への組み替えが不可欠と考えているが、この事業別予算の観点から自治体の予算書をみると、およそ3つのタイプに分けることができるように思う。 ①     旧来型款項目予算  これは説明欄で目的別の款項目別予算を事業別に組み替えていない予算で、なかには事業名をもうしわけ程度にしか書いていないものもある。また、新規事業についてのみ別途説明資料を作成しているものの、基本的には実施予定事業と歳出内容が読みとれない予算書。 ②     単独型事業別予算  事業別予算に組み替え、旧来型にくらべれば大きく前進しているが、現段階ではそこに止まっていて、予算執行後の事業評価や決算、あるいは次年度予算に結びつけるしくみになっていないタイプ。 ③     連動型事業別予算  もっとも進化したと思われるタイプで、事業別予算に組み替えるとともに、全事業に付した事業番号を事業評価や決算に連動させることで事業の流れを一貫性をもって管理する、一望性ある政策情報の作成を念頭につくった予算書。 各タイプの分布状況は私にはわから...

後進国に近い中心国状況

  日課の新聞切り抜きをやめて 10 年。けれども日本の国際ランキングを示す諸指標だけは続けてきた。 10 年前に恩師が他界されたのが契機。政治学者で市民自治論の泰斗だった先生は、晩年に「成熟と洗練」、「没落と焦燥」という言葉を多用された。洗練された市民政治の成熟の予測に逆行し、怠慢と拙劣な対応を続ける現実の政治・行政の様相に日本の没落を予感し、焦燥を募らせた。私は先生が予感する「没落」の姿を新聞で追ってきた。近時の新聞から→ GDP3 位(近く 4 位転落確実)、国民 1 人当り名目 GDP33 位、政府債務残高 1 位、労働者平均給与 24 位、相対的貧困率 G7 中 1 位、幸福度ランキング 47 位、報道の自由度 70 位、ジェンダーギャップ 138 位、女性議員(国会)の割合 164 位、働く女性の法的保護は主要先進国中最低、太陽光パネル生産量は 1 位から 5 位へ、二酸化炭素の排出量 G7 中最多。ほかにも非正規雇用率、教育費用自己負担率の異様な高さなど枚挙にいとまがない。ここからみえることは、日本は「先進国」などではなく「後進国に近づく中心国状況」にあることではないか。先生が控え目に表現した没落の「予感」は確実に「実感」される現実に変わった。 1980 年代、エズラ・ボーゲルに「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とおだてられて有頂天になったころから日本は針路を誤った。

ハイビスカスとクンシラン

 室内の窓辺でハイビスカスが大きな赤い花をつけている。花弁の突起がなくまるで バラのように美しい。これとクンシランは母の形見。花を愛でた母が逝って 30 年になるが花はいまも健在。クンシランは脇芽、ハイビスカスは挿し木をくり返してきた。植物には 2 つの命がある。一つは個体としての命、もう一つは種としての命。前者は春芽吹いて秋には枯れるように、いずれ尽きる命だが、後者は環境に大きな異変がないかぎり続く永遠の命。鉢植えの植物は、そもそも環境を大きく変えているのだから、種として永遠の命は 保てないが、それでも人為的に環境を整え続けるかぎり長らえることができる。つまり、私が生きているかぎりということである。大切にしたい。村で生活していたころ、私は 5 人きょうだいの末っ子なのに、小学 3 年のころから母は私にだけ2坪ほどの畑を与えて、野菜の育て方を丁寧に教えてくれた。農業を継がせたかったのだと思う。あれから 70 年以上、母の想いとはずいぶん違った道を歩んでしまった。けれども、母から授かった知識と技術はいまも野菜畑で生きている。母が遺したハイビスカスをながめながら昔を追憶し、一月後に迫った今年の畑にも想いを馳せる。  

<追悼> 川村喜芳さんの大きな足跡- ロマンと構想力が拓いた自治の地平

<追悼> 川村喜芳さんの大きな足跡-  ロマンと構想力が拓いた自治の地平    北海道の自治の歴史に大きな足跡を刻まれた川村喜芳さんが、 2025 年 1 月、 91 歳で逝去された。川村さんは北大法学部を卒業後道庁に入庁し、横路知事の時代に商工観光部長をへて道自治研修所長を最後に定年退庁した後、 1991 年から北海道町村会の常務理事に就任された。川村さんは常務在任 10 年を通して、真骨頂の探究心と旺盛な行動力を発揮され、大勢の志ある人々とともに、北海道の自治の革新に情熱的に取り組まれた。  時は分権改革の時代を迎えていた。 1980 年代に唱導された「地方の時代」の到来がバブル経済の混乱によって一旦は後退するものの、 1990 年代になって分権改革の流れが本格化した。川村さんはそうした状況のもとで北海道の地方自治の土壌を肥沃にしようと、多数の先駆的な改革に挑戦された。それは、町村の連合組織である北海道町村会の「内なる改革」と、自治分権をめぐる知的ネットワークの形成という「外なる改革」に大別できる。  川村さんは就任早々、北大教授の木佐茂男さんの示唆により、日本では町村会に相当するドイツの自治体会議を町村長とともに調査訪問し、連邦政府や州政府に対して町村の利益を擁護し権利を主張する諸活動や、町村に対する立法・判例・学説などの情報提供、調査研究、コンサルタントなどの支援の諸活動を学ばれた。そしてこれをモデルに、北海道町村会の新しいあり方を構想され、さまざまな改革に手を染められた。  改革の主眼は、職員研修、調査研究、情報提供であった。小規模ゆえに制約の多い町村職員の能力開発をとくに重視し、政策形成と政策法務に重きをおいた職員研修の抜本改革や法務支援室の設置、町村職員の北大大学院への派遣制度の創設などを通して、桑原隆太郎さん、小林生吉さん、西科純さんなどをはじめ町村職員のなかに優れた人材を輩出した。また地域医療や下水道問題など町村共通の政策課題をテーマに、職員と研究者による調査研究も積極的に推進した。  情報提供では季刊の『フロンティア 180 』(数字は道内町村数)の発刊が特筆される。論文、講演、座談会、ルポ、エッセィ、解説など内容は多彩で、登場人物も道内の町村長・知事・自治体職員・学者・専門家のほか、法政大教授の松下圭一さん、東大教授の西...

都道府県議会へのある提案(自治日報 2018年6月8日号から転載)

 都道府県議会へのある提案     10 年ほど前、都道府県議会について一つの問題を提起したことがある。地方分権改革によって国と自治体の関係のタテマエが、「上下主従から対等協力の関係へ」と変化したのにともない、それまでは国を補完し国の出先機関的要素の強かった都道府県は、これからは市町村の補完を第一義とする広域自治体に様変わりするのだから、都道府県の議会もこの変化をふまえて自己のあり方を再構築しなければならないのではないか、と考えたのである。 当時は、議会基本条例がひろがりはじめ、都道府県レベルでも三重県議会に数道府県が続くなど、議会改革の流れが全国化しつつあった。けれども、道府県の議会基本条例を一瞥すると、市民参加などは理念的・抽象的な表現にとどまり、また「広域自治体の議会」という特性をふまえた議会の役割や運営に関する記述を発見することはできなかった。 そこで一つの提案を思いたった。すなわち、現行の都道府県議会は、行政の部門別タテワリに即して事務を所管する常任委員会を議会活動の中心に据えているが、これにくわえて、一定の地域を対象にする複数の地域別常任委員会(域内選出議員を委員とする)の設置による、面的なヨコワリの政策活動をもう一つの焦点にすべきではないか、という提案である。この内容は、全国都道府県議会議長会報の 2009 年 7 月 15 日号と本紙(自治日報) 2010 年 2 月 12 日号で「府県議会に市町村参加を」と題して紹介した。 このころはすでに地方自治法改正によって、議員の複数常任委員会所属ができるようになっていた。そのうえで、地域別常任委員会の設置には、次の三点において大きなメリットが考えられた。第一は、広域自治体の議会として実効ある市民参加を推進する可能性をひろげる。基礎自治体の議会は、さまざまな方法で市民との交流を試みているが、広域自治体の議会は、まさにその広域性のゆえに困難がともなう。とはいえ市民を代表する議会の本質からいって市民参加は素通りできない。  基礎自治体レベルの市民参加は、①個別事業や特定政策にかかわる利害関係者の参加、②総合計画などの一般的な政策課題への市民参加、③コミュニティ・レベルの市民参加に大別できるが、広域自治体では、①はともかく②と③はなかなか難しい。そこで、普段から地域の課題を熟知して...

忘れられた道政改革を呼び戻そう(北海道自治研究2014年4月号から転載)

忘れられた道政改革を呼び戻そう 1  高い支持率と無為の責任 ここ数年、友人の道職員がくれた年賀状に、職場の士気の低下を嘆く添え書きが何通かあった。給与の削減は我慢できるにしても、市町村との交流に欠かせない車の燃料費までままならない惨状を吐露するものから、お金がないから仕事をしないことが最大の仕事などと、皮肉交じりに嘆息するものまである。たしか 4 年前、道は 5 兆 7000 億円の累積債務を 5 年で 5 兆円まで減らすと財政の再建を公言した。けれども、借り換えの連続で返済を先送りするだけで、現在に至っても改善の気配はなく、財政危機は深刻度を増している。  それでも新聞報道によれば、高橋知事の支持率は高く、 6 割の道民は肯定的に評価しているという。なぜなのかと考え込む。さしあたって次の 5 点が思い浮かぶ。①市町村と違って、道の仕事は道民の評価に直結する対人サービスが少ないから、道民のきびしい評価は概して生まれにくい。②指定都市の札幌市は道に匹敵する大きな権限をもち、その分札幌では道政の存在感は薄い。にもかかわらず、道政評価が甘くなる札幌の大票田(全道人口の 35 %)が知事選挙の行方を左右するという、権限と票の間の制度矛盾がある。  以上は知事に対する道民の評価が甘くなりがちな制度上の一般的要因だが、これによって、③知事選挙は、政策競争というよりは人気投票に傾斜しやすくなる。そして③在任中に不正事件や目に見える大きな失策が少なければ、知事への評価は高くなり、くわえて④テレビ広報などを利用した、スマイルの露出による好印象の演出は支持率をいっそう押し上げる。さらに、これが一番大きな問題なのだが、①から④に隠されて、⑤無為の責任、すなわち、知事としてなすべきことを怠った責任は追及されにくいということになる。  現知事になって一一年が経過したが、私は就任時の言葉を鮮明に覚えている。知事は「北海道がなすべきことは国の政策メニューにすべてある」と述べたのである。正直いってショックであった。就任直後だったから、まだ知事になりきれていない、前職の北海道経済産業局長、すなわち国の官僚が見ていた北海道観はそういうものかと受け止めつつも、すでに分権時代に入っていて、自主・自立の北海道への転換が求められる時代の認識とはあまりに乖離した発言だったので、先行きに大きな不...

「道庁スルー」をスルーする道政 堀達也元知事の講演を聴いて(感想記)

  「道庁スルー」をスルーする道政  堀達也元知事の講演を聴いて(感想記)   2025 年 3 月 5 日に堀達也元道知事( 1995 年~ 2003 年在任)の講演を聴く機会に恵まれた。『激動の 2922 ―道政 8 年の記録』( 2025 年)というタイトルの本を自費出版されたのを機に北海道商工連盟が企画した講演会で、堀さんは 91 歳とは思えぬほどの元気さで、予定されていた 1 時間半の講演時間をこえて、 2 時間よどみなく熱弁をふるわれた。  堀さんは、北海道の歩んだ歴史や地方制度・自治制度上の特殊性、また在任中に取り組んだ政策上の仕事やその背景などを縷々話された。けれどもそれは、単なる回顧談ではなく、話の底には、近年流行りの「道庁スルー」の言葉が象徴するような、存在感を薄める一方の道政への憂慮と再生を願う熱い想いが流れていた。道庁スルーとは、市町村が道庁を頼りにせず素通りして国の省庁に直結してコトをすすめることをいう。またその背後には道民が道庁の存在をあまり肯定的に評価しない「道庁ディナイ」という現象もある。 堀さんは 1995 年の知事選で「北海道政府の確立」を公約にかかげた。自治体を「政府」と呼ぶいい方は、当時は一般的ではなく、とくに国の政府を意識して、自治体の自主性・自立性を強調するときに使われる、特別な思いを込めた言葉だった。この年、村山内閣の官房長官だった五十嵐広さん(元旭川市長)の尽力が功を奏して、待望の地方分権推進法が成立し,明治以来続いた集権国家から転換する兆しがみえはじめた。 堀さんはこの自治分権時代の到来をみすえて、あえて「北海道政府」を公約に掲げ、就任後は自主・自立の北海道を築くために果敢に道政改革をすすめた。けれども不幸なことに就任直後に道庁の不正経理事件に見舞われた。そして道政改革はこれに対する道民の批判をかわすために行なわれたという説が、後日まことしやかに流布する。けれどもそれは事実に反する。道政改革や支庁改革の重要性はそれ以前の選挙公約にしっかり書き込まれている。 ここでは詳述できないが、改革は道職員が「 100 の改革」と命名したように多岐におよんだだけでなく、斬新な内容は他の都府県から「分権時代の府県モデル」と高く評価されたほであった。けれども道内では、上記の道庁の不正経理の発覚による道民の道庁不...

存在感なき漂う道政を憂う

  市町村、道、国の 3 層の政府のなかで、「一番存在感がないのは道政」だ。道は頼りにならないと市町村が道を素通りして国の行政に直結してコトをすすめる、いわゆる「道庁スルー」 through が巷間流布して久しい。道民の道政に対する消極的、否定的な評価も半端なく、最近は「道庁ディナイ」 deny の言葉さえ耳にする。 100 人も道議がいて 3 兆円以上もの予算を審議する道議会だが何が論点・争点だったのか報道は皆無。メディアも道政をスルーする。「スルー」、この不名誉な言葉を知事や道議はどう認識しているのか、いないのかさえわからない。道の広報紙はペラペラの紙に縮小、道議会も独自の広報紙はないから、私たち道民は知るすべがない。 3 月 5 日、堀達也元知事の講演を聴きに行ってきた。かつて道政改革を果敢に進めた堀さんは、「漂う道政」「静かな道政」を憂い、「さほど金をかけなくてもやる気と知恵を出せば大きなムーブメントが起こせる。道政の関係者が一歩前に出る勇気をもてば、きっと何かがはじまる」と講演を締めくくった。私は、堀後の道政がこの道政改革をしっかり継承していれば、現在のような不名誉な事態は避けられたと思う。はたして道政は「失われた 20 年」を取り戻せるか。否、取り戻さねばなるまい。「義を見てせざるは勇なきなり」  

ブログ開始から今日で10日

 ブログをはじめて今日で10日たつ。慣れない作業だがけっこう遊んでいる。「公開」しているが、ネットで見られるのは 1 週間後だそうだから、そろそろ開けるようになるだろう。それにしてもこの歳になってなぜと笑われるのは百も承知だが、気張って説明するほどの理由はない。「下山の路傍にて」とサブタイトルにつけた。下山とは人生の下山のこと。その下山もだんだん麓に近づいている。残り少ないこの時間をできるだけボケと闘って過ごしたい。その一念でパソコンに向かっている。けれどもそれだけが理由なら、多少は読んでくれる人がいると思うと気が引ける。近年私は「教育産業の産業廃棄物」を自認している。とはいえ、よく探せばリサイクルの余地が少しはあるかもしれない。思いつくまま書きつければ、その何かを拾い出してくれる人がいるのではないか。そんな想いも少しある。できれば、季節の移ろいのなかで浮かんだこと(移ろう季節)、折にふれて綴った拙いエッセイ(一言閑話)、多少まじめに考えた小論(窓明浄机)の 3 つのラベルに分けて気ままに拙文を投じてみたい。家事介護もあるので、「移ろう季節」は 1 回 400 字ていど、所要時間は 20 分内と決めている。  

カツラの葉は2度紅葉する

   庭のカツラの木を剪定した。屋根からの落雪をカツラの周囲に高く積み上げ、これを踏み台にノコギリで剪定する。早くしなければ融けて足場がなくなる。この作業は毎年行なう。カツラは放っておくと巨木化する。アイヌの人たちがくり抜いて丸木舟をつくったほどだから推して測るべし。そんな木をなぜ庭に植えたのか、だれもがそう思う。理由は単純。妻の昭子がこの木を好むからだ。春、カツラは丸くて小さな新葉を淡い赤茶色に染めて萌え出す。そして秋、夏のあいだ繁茂して庭を被った葉は一気に真黄色に変色。要するにカツラは春と秋に 2 回紅葉するのである。わが家では「春の紅葉」「秋の紅葉」と呼んでいるが、昭子はどちらかといえば春の紅葉のほうが好きらしい。今年は強剪定したのでどんな春の紅葉がみられるか楽しみだ。そしてこのカツラ、あるとき昭子に大きな恵みをもたらしてくれた。 1999 年 5 月、彼女が脳内出血を発症して言葉を失ったとき、これをとり戻す手助けをしてくれたのである。この感激は 5 月のブログに書くことにしよう。  

スズメの国際化は進んだか

 エゾアカマツに括り付けてある巣箱に時折スズメが出入りしはじめた。まもなく営巣の時を迎える。かつて書いた日記を転載→ [1998 年 11 月 15 日 ] わが家のバードテーブルに、シジュウカラ、スズメ、ハシブトカラ、ヤマガラ、アカゲラ、シメなどに混じって、今年は珍しくニュウナイスズメ Russet Sparrow が飛来した。大きさは普通のスズメ Tree Sparrow と変わらないが、普通は林に棲んでいるから滅多に見かけない。日本にいるのはこの 2 種だが、スズメの方が強いので、ニュウナイスズメは林に追いやられるらしい。ところがヨーロッパにはもう 1 種類、イエスズメ House Sparrow がいる。先ごろフィンランドで初めて見た。彼の地では、イエスズメが民家の近く、スズメが林、ニュウナイスズメが深山といった具合に棲み分けている。驚いたことに、日本にいないはずのイエスズメが、近年積丹半島で観測されたと新聞が報じた。海を越えてスズメの世界で国際化?が進み、やがて日本でもイエスズメが街中の支配権を握るときがくるのだろうか。→この日記から 25 年たつがニュウナイスズメは見かけない。その後、スズメの国際化はどうなったのだろうか。

キツネが教える野生の摂理

 この時期、キタキツネが森と庭に頻繁にやってくる。キツネをみるたび「キタキツネ物語」の竹田津実さんを思い出す。以前は小清水町、いまは東川町に住むアニマルドクター。久しくお会いしていない。彼の著作『野生は生きる力』はとてもいい本、愛読書。 野生動物の摂理を通して、人間 社会の病理に警鐘を乱打する。キタキツネは一度に 3 から 5 頭の子どもを生む。子育ては母親の仕事で、ケアは一頭につき 30 から 40 分に一度の割合で回ってくる。このケアの谷間の時間が子どもにとっての自由時間になる。ところが子どもが一頭の場合はどうなるか。親は朝から晩まで子どもの世話に没頭する。その結果、子ギツネは遊んだり睡眠をとったりする自分の時間が持てなくなり、ついには死に至るというのである。このオーバー・ケアによる死は、エゾタヌキの場合はもっとすさまじいそうだ。竹田津さんは「子どもの数を勝手に決める人間の子どもが正常に生きのびることは大変なことなのだと気がついた」と述べている。何が大変か、あとは読者が自分の頭で考えろ、ということか?  

馬なくして農生活あるまじ

 道路の雪がとけたので近くの馬頭観音のところまで散歩した。路傍の石碑は 100 数十年の風雪で摩耗し、かろうじて「明治 29 年」の没年が読める。私の 馬 への愛着は格別なものがある。少年のころ農業を営んでいたわが家は、「馬なくば農生活あるまじ」だった。馬は、耕運、乗用、運搬の役割を一手に引き受け、農に欠かせない堆肥づくりの主役でもあった。学校までの2キロ雪道も橇を引いてあけてくれた。だから大切にされ、命尽きれば馬頭観音に丁寧に祀ったのである。正月の餅はニンジンと一緒に馬にも進呈した。小学 3 年のとき右目が不自由な白馬がわが家にやってきた。以後、飼い葉や給水、寝藁敷きが私の仕事になった。雌馬は厳寒期に出産する。生まれたばかりの濡れた仔馬の体をこするために柔らかい藁を用意し、母屋の一角にある厩舎を俄かストーブで暖め、家族総出で助産する。そのとき一息ついた父は「羊を 152 (以後に) 、牛馬を 284 (殖やし) て 340 (みよと) 、豚は 120 (言う) 」と私に教えた。家畜たちの受胎から出産までの日数だ。 70 年前、私は農業を継いで生涯馬と暮らすと信じていた。

アカゲラに魅せられて33年

アカゲラが油身をつつきに年中やってくる。近年はカラ類に学んだのか?ヒマワリも食べるようになった。アカゲラには特別の思い入れがある。なにしろアカゲラに導かれて現在地のあいの里に越してきたようなものだから。 33 年前の 5 月、公務員宿舎でお隣さんだった田口晃・睦子さん一家が北区のあいの里に越した。その直後、運転免許を取得したばかりの私は、練習を兼ねて田口さんが庭に残していったラベンダーを新地に届けた。そのときは素敵な新築の家並みを眺めて帰ってきた。数日後、東京から戻った妻の昭子を乗せて田口さんを再訪。そのとき彼女は、窓の向こうにひろがる広葉樹の大きな森からキャッ・キャッと声高に鳴いて飛来したアカゲラに一瞬にして魅せられたのである。私は「家は女房のためにある」と観念して、田口さんとは一軒おいて隣のアメリカンハウスを衝動買い。高い買い物ではあったが、バブルの時代だったから資金の乏しい私でもローンが組めた。そして 8 月に引っ越す。幸いにも銀行の不良債権の対象にならずに住み続けて現在に至る。アカゲラはあれから何代も世代交代しながら、いまも頻繁にやってくる。数年前からはエゾリスも時々姿をみせる。    

1年を13か月で暮らす方法

  チェコの作家、カレル・チャペルは『園芸家 12 か月』という小さな本を 100 年以上前に書いた。絶妙のユーモアに彩られた愉快な本。北海道の 3 月中旬。陽光が和らぎ、ネコヤナギが春を告げると、残雪の下から土の鼓動が聞こえてくる。この時期、今年の庭の構想で頭がいっぱいになる(畑の構想も)。だが本格的な春の訪れはもう少し先だ。いつも想う。雪国では 1 年が 12 か月は少なすぎる。なんとかして 13 か月に増やせないものか。それには早く雪を溶かすにかぎる。なんと偉大な発見をしたものかと、せっせと雪をわり、融雪用にためておいたコーヒーの出しがらを丹念にまく。かくして春はわが家の庭に 3 週間早くやってくる。待ち構えていたスノーボールやフクジュソウがまず歓喜の声をあげる。園芸熱は、正常な判断力をもつ常識人を、急に極端な偏執狂患者に変える、とチャペ ル は笑う。自分には気づかない諸行の滑稽さをよく写し出してくれる愉快な本だ。これまで庭好きの友人たちにも一読をすすめてきた。辺りはまだ一面の雪景色だが、暖気が続いて昨日は庭の一角に土が顔を出した。  

14年前の「脱原発10原則」

 14 年前の今日、東日本大震災から多くの時が流れた。傷はいまだにいえない。当時の日記からふり返る→ [2011 年 3 月 14 日の日記 ] どこにいようがハレの気持でこの春を過ごせる日本人はいない。大震災は多くの命と財産、地域の文化と歴史を一瞬にして飲み込んだ。千年に一度という激甚・複合・広域の大災害の被災者には申し上げる言葉もない。無から有をなす気概で頑張ってほしい。被災しなかった者も深い自省のもとに日本再構築に向き合うことになる。まずは潤沢な資金と再生政策の自由を被災地に届けるべきだ。地方分権改革が中途半端で進んでいないから、土地利用をはじめ中央集権の残滓が復興の足を引っ張る。原発災害は完全なる人災。電力会社と原発メーカーと政府と原子力工学者の責任は重い。原発依存度を 50 %まで引き上げ、原発輸出まで先導する民主党の政策は信じ難い。徹底した情報公開、放射能汚染の収束、被災者への保障、原発ゼロ社会への決意がまず必要。                   *  *  *   [2011 年 3 月 20 日の日記 ] 夕方、某記者から「原発」について電話。あとでかけ直してと素人頭をひねった。精一杯考えたことを「備忘録・脱原発の 10 原則」と銘打ってメモってみた。①今後は原発を新設しない、②稼働中のものは耐用年数がくれば廃炉にする、③それ以前でも危険度が高いものも廃炉にする、④ 30 年後は原発ゼロ社会に移行する、⑤稼働する原発は最大限の安全管理体制を構築する、⑥原発低減過程では自然エネルギーを代替エネルギーとして不足を補う国策を推進する、⑦発電と送電を別主体に分離する、⑧発電・売電を自由化し、発電主体の多様化、電力購入の自由化を推進する、⑨エネルギーの地産地消、エネルギーの地域自治を推進する、➉非常時における地域間の相互補完の体制も構築する。「依存から逓減へ、逓減からゼロへ」の移行を原発政策を基本に 10 原則を着実に実行する。→あれから 14 年、備忘録は役に立った。メモしておいてよかった。いまも変更の余地なし。  

老いて輝くもの、人間

もうすぐ雪解け。家のなかからバードテーブルのにぎわいを眺めながら、 20 年前に石城謙吉先生(北大名誉教授)からいただいたエッセーを読み返した。表題は「老いて輝くもの、人間」。バードテーブルの小鳥はいつも活力にあふれている。自然界は繁殖能力などに衰えのきた老衰個体や傷病個体は、種の保存に役立たず無駄食いになるから、速やかに死ぬ仕組みになっている。だから生きているものはみな元気なのだと。そして先生は続ける。その唯一の例外が人間で、人間は長い時間をかけて生物としての進化を文化の発達に置き換えて種内淘汰をやめ、そのなかで老人(障がい者も)は敬われ大切にされて知識のセンターという大きな役割を担うものとなった。仕事や子育てから解放された自由と、山のような知識と思い出に囲まれた輝かしい時期、それが人間の老後ではないか。それなのにいま、この人間の原点はどこに忘れられたのだろう…。毎日の新聞やニュースにふれて、先生の思いに同感することしきり! 

春はカーソンの贈り物

 春到来。想いは昔も今も変わらない。 1999年4月15日の日記から→ 春 の足音に誘われて散歩に出る。小鳥の声はさえずりに変わり、スノードロップはもう咲いている。すべての命が光り輝く春はまだ先だが、春到来の確かな感触を得る。この季節、いつも思い出すのは R ・カーソンの『沈黙の春』。 1960 年代のはじめ、環境汚染と環境破壊を告発した、世界最初の衝撃の本だった。地球人の環境に対する認識をこれほど変えた本も少ないだろう。春を迎えてしみじみ思う。春は沈黙しなかった。それは彼女の贈り物に違いない、と。彼女は『センス・オブ・ワンダー』でも感動的なメッセージを遺してくれた。地球の子どもに、生涯消えることのないセンス・オブ・ワンダー、すなわち、美しいもの、未知なもの、神秘的なものに目を見はる感性を授けてほしいと。一粒の種子の発芽、森を渡る風、流れる雲。彼女は、感性を育む土壌はこの不思議の自然だという。春はカーソンの回想からはじまる―「春はまたカーソン女史の贈りもの」