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初鳴きウグイスと戯れる

 昨日は森でウグイスが初鳴きした。毎年 4 月末に正確に飛来する。森で芽吹いているのはヤナギ(ネコヤナギとイヌコリヤナギ)だけ。梅の開花はまだ 2 , 3 日後だから「梅にウグイス」ならぬ「柳にウグイス」で、これは北海道ならではの光景だ。森にやってきたばかりのウグイスは、まだ「ホーホケキョ」とはさえずれない。「チョッ」「キョッ」と鳴く。上達するのを待っていると 4 、 5 日かかる。そこで私の出番となる。森に近づいて「ホーホケキョ」と口笛を吹けば、ただちに近くに寄ってきて(姿は見えないが)下手な大声で鳴き返してくる。 6ha の森から聞こえるのは 1 羽だけで、おそらくここがテリトリーなのだろう。だから口笛を競争相手の侵入と勘違いして、テリトリーの外へ追い払うための警告を発するのだと思う。この応答を 1 日かけて繰り返すと、みるみる上達して翌日か翌々日には「ホーホケキョ」と美しく鳴けるようになる。子どもが小さかったころ、わが家は毎年 5 月の連休を軽井沢で過ごした。高地の軽井沢の気候は北海道とほぼ同じ。あるとき北軽井沢の浅間牧場で、ウグイスとのこの戯れの面白さを知った。暇な方はお試しあれ。  

正副議長の立候補制を阻む壁

  〇 2025 年 4 月 29 日投稿 自治日報 2021 年 1 月1・ 8 日合併号より転載 正副議長の立候補制を阻む壁  自治体議会の正副議長の選挙に際して、その職に立候補を志願する議員にたいして所信表明の機会を設ける、いわゆる「立候補制」を取り入れる議会が増加している。いうまでもなく立候補制は、正副議長の選出過程を透明化して市民に分かりやすくするとともに、志ある候補者が所信を述べることで、議会運営について正副議長としての決意・抱負・方針・論点などを披瀝する意味においても、近年の議会改革の流れに即した試みである。  立候補制に決定版があるわけではないが、栗山町議会の方式は大いに参考になる。同議会は、立候補制を①議会基本条例に明記し、②議員は自由に志願でき、③公開の本会議場で所信表明をおこない、④法にもとづく選挙方法で投票し、⑤一連の過程を記録し公表する。これらを「正副議長志願者の所信表明実施要領」に定め、同時に、所信表明の有無を志願者の自由意思にゆだね、かつ志願者以外の議員にたいする投票も有効としている。  現在、ひろい意味での立候補制は、およそ 360 市、 285 町村の議会が試みている。ひろい意味とは、上述の「栗山 5 原則」ほど熟度は高くないが、非公式・非公開の場で候補者の所信表明を実施している議会もふくめているからである。せっかく志願者が所信を表明する機会を設けるのであれば、公式・公開の場でおこなうほうが市民のより高い評価が得られると思うのだが、議会関係者の話を聞けば、そこには大手をふって実施に踏み込めない壁がある。  それは法律解釈と会議規則の 2 つの壁である。ではこれはクリアできないものなのか順次考えてみよう。まず地方自治法は正副議長の選挙において準用する公職選挙法の条項をあげている。それは第 46 条第 1 項(候補者 1 名の記載)、同第 4 項(無記名投票)、第 47 条(点字投票)、第 48 条(代理投票)、第 68 条(無効投票)、第 95 条(最多数者の当選、 4 分の 1 以上の得票)で、準用する公職選挙法の条項はこれがすべてである。  現に議会は立候補制をふくめてこれを準用して正副議長を選出している。ところが「公選法の準用に関し、立候補に関する 86 条が準用されていないので、議長、副議長の選...

道議会議長も立候補制に!

 昨日の道新に道議会の議長選の記事が出ていた。道議会の議長は最大会派から議長、第 2 会派から副議長を選出するのが慣例だが、最大会派の自民党が慣例にしてきた当選 5 期生間の候補者調整がスンナリいっていないという報道だった。議会運営のあり方や議会改革をめぐる高尚な意見の対立・調整などではなさそうだ。市町村でもかつては多くが第 1 会派から議長、第 2 会派から副議長が習わしだったが、近年は大きく様変わり。住民に信頼される議会への改革をめぐって、議長の見識と指導力が大きな影響力をもつことが認識されるようになった。その結果、正副議長候補者を立候補制にして自由に所信表明させ、そのうえで選挙する制度に切り替える議会が増えている。方法は区々だが議会基本条例にこの方式を明記している議会もある(例えば道内では栗山町議会など)。道議会もそろそろ市町村議会を見習ってはどうか。この立候補制についてかつて書いた小論があるので、参考のためにラベル「窓明浄机」にあらためて投稿しておきたい。寒い日が続くがそれでも春は進む。道議会にも改革の春を!→キバナノアマナ( 24 )、ムスカリ( 25 )、ビオラ( 26 )、エンレイソウ( 27 )。

簡単に元号を西暦に換算

 昨日は資源ごみの日。廃棄しようと思った古い資料から「平成 11 年 5 月」と表記のある文書がポロリ。平成 11 年?と、頭のなかですぐ西暦への換算がはじまる。元号を使わない私の日常風景だ。「昭和 20 年代」は敗戦・占領・復興・小学生、「昭和 30 年代」は中学・高校・大学と、各時代の 10 年は私の生きた時代イメージとぴたり重なる。ところがそれ以降になると自分のことも歴史のことも元号のディケイドでは説明できなくなって西暦を用いるようになった。ほかにも元号敬遠の理由はあるのだが、それはともかくとして昭和 50 年ころから、自分の書く文字から元号は消えた。天皇主権下で元号による時代区分が意味をもつ「明治時代」「大正時代」「昭和前期」」などは別として、それ以外はまったく使わない。今日は「令和 7 年 4 月 27 日」、「令和」という文字をはじめて使った。このようなことだから換算表をみる手間を省くため、「明治+ 67 、大正+ 11 ,昭和+ 25 」、その後は「平成- 12 、令和+ 18 」と自分なりの方法を考えて重宝している。近年は元号を強要されることは少なくなっているが、併用を認めることでかえって混乱や戸惑いを生む場面に各所で出くわす。  

わが「春の庭」は真っ盛り

 この時期、 4 , 5 日で庭と防風林と森の様相が一変する。まず庭。フクジュソウはもう終わりにかかっているが、カタクリとエゾエンゴサクはまだ盛り。ニリンソウが地面を這うように庭の各所で葉を広げて、カタクリの薄紫とエンゴサクの淡い青が自分の花であるかのように下から持ち上げている。あと 3 , 4 日すれば自分の花の白一色でこれらを包み込んでしまうだろう。ヒヤシンス、チューリップ、ヒトリシズカは今日が開花日。灌木のうちエゾムラサキツツジはいまが満開で、まもなく濃い橙色の襟裳ツツジが、続いて純白のジュンベリーが枝一杯に白い花をつける。庭に接する防風林(幅 20 m、奥行き 10 m)。地面は半分が紫のスミレ、半分がエンゴサクで覆われ、もう地面は隠れた。数年前はワスレナグサが半分を占めていたがいつの間にかエンゴサクに入れ替わった。その向こうの森。手前にニワトコの一群があり、その背後でヤナギが淡く青める。さらにその奥には背の高いシラカバが群生している。これも芽吹きが迫っている。飛び交う小鳥たちも忙しなくなってきた。庭に出るとあっという間に時間がたつ。開花→ヒヤシンス( 22 )、チューリップ( 23 )、ヒトリシズカ( 24 )

フィールド オブ ドリームス

 昨日書いた著書の執筆には約 7 ヵ月かかった。 450 頁の大著で文字を打ち込むには相当のエネルギーを要した。もう一度やれといわれても絶対にできないほどの過重な作業だったが、執筆中はずっと後ろから押してくれている見えない力を感じていた。執筆後は燃え尽き症候群にもならずすぐ普通の生活に戻れた。もうひとつ。完成した本が手元に届いた直後に夢をみた。野球場のような大きな広場があって、外野席あたりの茂みのなかから、往年の準公選運動の指導者たちが次々に姿を表わして、広場の真ん中に集まってきた。情景だけで話し声は何も聞こえない。夢はそこまで。目が覚めて、むかし観たケビン・コスナー主演の映画 Field of Dreams の場面とそっくりなことを想い起こした。アメリカのある州の田舎でトウモロコシ畑を営む青年夫妻が「野球場をつくれ」という謎の声を聞いてつくった粗末な球場に、父親をふくむ往年の亡き選手たちが外野のトウモロコシの茂みから出てきて野球を楽しむ映画である。この映画のことは頭から完全に消えていたのに、なぜ準公選運動の本と重なるかたちで夢によみがえったのか。不思議な力と夢が意味すること→この本は自分の本であるようで自分の本ではないということであろう。  

歴史の記述と後々の評価

2 年前に上梓した『東京・区長準公選運動―区長公選制復活への道程』の内容に関して、昨日もある人から問われた。かつて東京 23 区の区長は区議会が決める制度になっていて、住民は区長の選挙権を奪われていた。そこで住民は、区議会が住民投票を実施して区長を決める、いわゆる「区長準公選運動」を起こした。実際に 6 年かかって住民投票は実現し公選制度も復活した。私は全期間にわたってこの運動にかかわった。著書はもう半世紀も前のこの運動の一部始終を克明に執筆したもの。だが歴史の記録と証言だから、当時の評価は別として、後知恵による評価は禁欲して本から一切排除し後世に委ねた。そのために今日からふり返って著者は運動をどう評価しているのかという問いが発せられるのであろう。運動当時の評価は、本に書いたように 2 つの運動目標(住民投票の成功と区長公選制の復活)を達成したことに尽きる。今日からみた追加的な評価としては、①市民運動が自治制度の法律を改正させた初の事例であること、②条例にもとづく歴史上初の住民投票であること、➂東京の今日的な自治を考える画期となったこと、④法運用の自主判断という自治体法務の先駆けとなったこと、などをあげたい。開花→コブシ(21)  

キトピロ餃子に幸あり

 寅さんの映画「男はつらいよ」。甥から「人は何のために生きているのか」と問われた寅さん、しばし間をおいて「人生で一回くらいは生きていてよかったと思うことがある。きっとそのために生きているんじゃないか」と。寅さんの明言にちなめば、昨夜つくったキトピロ(ギョウジャニンニク)の特製餃子の醍醐味はその一回にも相当しよう。要はニラに替えて庭のキトピロを使うだけのことで、その他の材料は一般的なつくり方と変わりない。けれども私は隠し味として干し貝柱を加える。豚のひき肉 300g を使う場合(約60個)、干し貝柱 2 ~ 3 個。貝柱はボールに入れ、大さじ 8 のカツオだしスープを加えふかし鍋で 30 分蒸す。蒸しあがったらみじんにし、とっておいた煮汁と一緒に後であんに練り合わせる。多少面倒だがこの程度の労は惜しまない。ビールの喉ごしまた格別なり。 5 年ぶりに一昨日と昨日 2 日続けての飲酒。最初の酒はコロナ以来久しぶりに再会した元道庁職員の友人たちとの歓談。実に有意義な楽しい夕べを過ごした。その酒で二日酔いして昨日 22 日のブログは初めて休んでしまった。開花→ユキワリザクラ( 17 )、赤いスミレ( 18 )、白いスミレ( 19 )、ビンカ( 20 )  

忙しいは怠け者の常套句 

  いま庭と森が美しい。この淡い芽吹きの季節が一番好きだ。シラカバなどの木々をシルエットに森の向こうに落ちる夕日の美しさもこの時期ならでは。こんな情景にうっとりしながら想う。スケッチして少し彩色してみたい…。けれども毎年想うだけで一歩も前に出ない。絵は子どものころから好きだった。白い紙のない時代。親や姉からもらった不要の便せんやノートの余白で楽しんだ。セミプロの絵描きだった小 6 の担任、藤井正先生の指導で村の学校の展覧会に出展して金賞を受賞したこともある。村を離れてから今日まで 70 年、描きたい想いはずっと引きづってきたが、しっかり心をきめて向き合うことはなかった。その理由はいつも「多忙」。チャンスは何度かあった。東京で先輩友人の宝田善さんが油絵の道具まで提供してくれたのに 2 回しか指導を受けなかった。北大にきてから再会した藤井先生にも勧められたが間もなく先生は他界された。自然保護協会の会長だった八木健三先生とはいろいろなところへご一緒した。先生はスケッチブックを手放さず、どこへ行っても 5 分で仕上げ、私にも勧めてくれた。これなら私にもできそうと思ったが結局は先生に感心するだけに終わった。もう無理。美しい風景は心のなかに描いておこう。人生の反省→忙しいは怠け者の常套句  

道新の議会記事を読んで

 4 月 15 日だったと思うが、道新に「住民不在のなれ合い議会」「やらせ質問のまん延」という大見出しが躍っていた。どうしてこんな問題が起こるのか。国会を最高機関とする一元代表制の国の国会内閣制と違って、自治体は二元代表制だから、長と議会の議員は別々の選挙で選ばれる、政治的に対等な関係にある機関で、その両者がシビアな緊張関係のもとに、活発な政策論争を通して論点や争点を明確にしながら、自治体としての最良の政策選択を導き出していく、というのがこの代表制度の基本である。そのために議会は 3 つのことを励行しなければならない。①批判や政策の発生源となる住民との交流を絶やさない。②長・行政を厳しく監視・批判し、自らも政策を提案する。➂議員間の討議を活発に行なって議会の意思を形成する。一方、長は、議員・議会の厳しい批判・提案を真摯に受けとめ、これを糧に職員を督励して職員の政策能力を高めいい仕事をしてもらう。これが二元代表制を健全に運営するための基本精神なのだが、議員・長・職員がこの制度の原理や精神を共有せずにだらけたり、なれ合ったりしていると、道新報道のような忌まわしい問題が起こる。 *       *   2006 年に栗山町が初めての議会基本条例を制定したことが契機になって議会改革が全国にひろがった。以来 20 年をへて、議会は、①改革の必要性をいまだ認識しない「寝たきり議会」、②議会基本条例は制定したが実行がともなわない「居眠り議会」、➂基本条例を着実に実行し、なお新たな改革にチャレンジする「先駆議会」に3分化している。この➂に属する議会では、例えば、議会の質問にかぎっても、質問者が原案を住民と同僚議員に公開して意見を求め、内容の充実をはかる検討会議を議会のシステムとして実行している議会、定例議会の終了後に質問と長の答弁内容を精査し、長のその後の処理状況を議会全体の課題として追跡する議会、常任委員会の議員間討議を通して議会としての意思を文書にまとめ、年数十項目の批判・提案を行なう議会などがある。どれも道内の議会だ。ちょっと調べれば、労せずしてこれらの情報は入手できる。だから昔と違って改革はゼロからの出発ではない。寝たきり議会、居眠り議会にも現状を憂うる議員は必ずいるはずである。ウサギとカメの競争のように、目覚めて走り出す勇気をもてば、や...

杓に浮かべる笑顔と景色

 昨日はシャク(杓)に舌鼓を打った。もう 30 年前のこと、石狩の送毛(旧浜益村)で漁業を営む本間晃・千津子夫妻のところからきたものだ。一昨日読了した諏訪宗篤『松の露-宝暦郡上一揆異聞』に郡上(岐阜県)の村方がシャクのおひたしを食べた話があって、すっかり忘れていた防風林のシャクをあわてて思い出した。 1980 年代から 90 年代のバブル期に全国にリゾート・ゴルフ場開発が吹き荒れた。一方で、これによる環境破壊を恐れた反対運動も全国的に展開され、妻の昭子はそのリーダーの一人として全国を飛び回っていた。北海道も例外でなく浜益村にもゴルフ場開発の波が押し寄せた。浜益村は天然林が圧倒する自然の宝庫である。石狩湾の漁場はこれに守られている。ゴルフ場による海の汚染を心配して立ちあがった漁師のみなさんを支援して、私たちは初めて浜益村を訪れた。本間さん夫妻と出会ったのはそのとき。本間さんは大卒後勤めていた会社を辞めて U ターンし漁業を引き継いだばかりのころ。若き本間さんは反対運動の先頭に。ゴルフ場は阻止された。私たちの親交はそれ以来。昨夜は、ご夫妻の笑顔と送毛の自然を想い浮かべてシャクを楽しませていただいた。  

目線の低さがつくる自然観

 一雨ごとに庭と森の緑が濃さを増してきた。以前、石狩に住んでいた野焼き陶芸家、猪風来さんのことを書いたことがあるが、もう一話。彼は自分の道を究めるには縄文人の心になりきることが大切だと説いていた。縄文人の心とは縄文人の自然観のことで、要は縄文人の自然を見る目線の高さが大事なのだという。そこで彼は鬱蒼とした (実はほったらかした?) 敷地に、年数をかけてヨシなどの材料を集め竪穴式住居をすべて手製で再現した。その掘っ立て小屋の土の床は外の地面より1㍍以上は低く、ここから外を見れば目の高さがちょうど地面のところにくる。この発想のユニークさに感心しながら、いわれるままに外を眺めれば、別世界が見えてくる。緑の量は圧倒的、木々は大きく高く、いっぱいに開いた掌で私たちを包み込むように迫ってくる。背丈の低い草花さえ上から見るのとは違ってくる。猪風来さんは、縄文人の自然に対する畏敬の念はこの目線の低さからくるという。そのとき思った。高い目線が「鳥観」なら、低い目線の「虫観」という言葉があってもいいと。それはともかくとして、目線の高さで見える世界が違ってくるのは自然だけではない。人間関係も政治の世界も同じだ。全体を俯瞰する高い目線も必要だが、その場合でも低い目線を積みあげた高い目線であってほしい。    

離農跡水仙一輪風に揺れ

 大小のスイセンが 3 株ほど花をつけている( 13 )。スイセンの花心は知らないが、なんとはなしに物悲しさと憂いを秘めた花である。 2 つの情景が心に浮かぶ。東日本大震災の津波で被災した女性が、激励に訪問された皇后陛下(現皇太后)に、一輪のスイセンをお礼にたむけていたテレビの映像。大津波にもめげず咲いたのだという。もう一つは原野に咲くスイセンの印象。道内の過疎地を車で走ると、原野と化した茫漠の土地にぽつりと咲いている。かつて人々の暮らしと家がそこにあった証である。スイセンは酸性の土を好む。だから人が去り家は消えても酸性化した土にスイセンだけは残る。ルピナスも見かけるから、この花も酸性土を好むのだろう。それにつけても物悲しい風景である。もう相当むかしのことだが、酸性化を防ごうと花壇に石灰をまいたことがある。ところがそれから数年というものスイセンは花をつけなかった。その苦い経験から石灰質の土がスイセンに向かないことを知ったのである。畑でもやはり同じこと。肥料を施さない草むらは次第に酸性化してスイセンとルピナスが繁茂する。スイセンを見てはいつも口ずさむ→離農跡 水仙一輪 風に揺れ  

山は海の恋人、川は仲人

 えりも岬で一枚の看板を見たときの衝撃はいまも忘れない。岬は風速 10 m以上の風が年に 290 日も吹く。森林皆伐でむき出しになった表土がこの強風に飛ばされ岬は禿地と化した。戦後懸命の緑化が試みられた。功あって緑化面積の拡大とともに豊かな漁場が復活して漁獲量が増大していく。看板はその相関を示したグラフ。江戸時代から「魚付林」とか「魚寄林」と称したように、山の栄養分や食餌が川を通して海に運ばれ海藻や魚の繁殖を促すことは経験知として知られていた。いまでは海・山・川の一体説は科学の常識だが、えりもの成功体験が弾みとなって、常呂町の漁協が「山は海の恋人、川は仲人」と表現したように、まずオホーツクで、さらに全国で実践されている。 30 年以上も前に全国岬サッミトの記念講演のため初めてえりも町を訪れて以来何度も遊びに出かけた。百人浜の波打ち、星降る夜空、静寂の豊似湖もすばらしい。佐々木隆人町長が贈ってくれたえりものツツジがまもなく開花する。岬でユースホステルを営んでいた仙波秀弘・加容子夫妻。当時は希少だった風力発電で実生のハマナスを育てていた。そのハマナスもわが庭で「えりもの春」を告げてくれる。

ホトケノザかオドリコソウか

 陽がよく当たる南側の壁際にオドリコソウが 2 かたまり咲いている。ところが植物図鑑『日本の野草』(山と渓谷社)によればこれはどうも「ホトケノザ」らしい。オドリコソウもホトケノザもシソ科オドリコソウ属に属している。オドリコソウは道端や畑の脇などに群生していてよく見かける。背丈は大きくなると 30 ㌢ほどになり、花の色は淡紅紫である。これに対してホトケノザは、形状はオドリコソウとほぼ同じだが、小ぶりで背丈も 10 ㌢ほど。花の色は紅紫で、オドリコソウより色が濃くメリハリがある。こちらのほうがいかにも「踊り子」を連想させるが、図鑑によれば北海道では生育しないことになっている。だからであろうか道端で見かけたことはない。庭のホトケノザと思しき花は自然に生えてきたもので、ここ以外では見たことがない。それも陽光がよく当たる一番暖かい場所だけである。どのような経路でここにたどり着いたのか、それともやはりオドリコソウなのか。図鑑を調べてもよく判別できない草花に時々出くわす。クリスマスローズ( 12 )、スイセン(13)  

新人議員の17条の心得(追録版1)

  新人議員の 17 条の心得 (追録版1) 神原 勝(議会技術研究会顧問) 議会は「言論の府」とか「討論のヒロバ」といわれます。これは住民の選挙によって選ばれた議員が議論(議員と住民、議員と議員、議員と長)することによって、それぞれの自治体の解決すべき問題の処理をめぐる政策の論点や争点を明確にすることを意味しています。政策をめぐって論点・争点が明らかにされなければよい結論は導き出せません。 この課題に応えるために議員は言論・討論に強くならなければなりません。そのために議員は自己研鑽に努めるわけですが、その努力の結果は、新人議員のときの心構えの如何が大きく影響すると思われます。そこで以下に、けっして上から目線ではなく、自分が新人議員ならどうするか、といった思いで 17 項目を考えてみました。 初めはもっと項目数が多かったのですが、私の所属する議会技術研究会で、聖徳太子の 17 条の憲法になぞらえて 17 項目にしてはどうか とアドバイスをもらいました。そのようなゴロ合わせで聖徳太子さんを引き合いに出して申しわけありませんでしたが、項目数を 17 に整理しました。釈迦に説法といわれる部分が多々あるとは思いますが、参考にしていただければ幸いです。       2023 年 7 月 29 日  神原 勝(北海道大学名誉教授、議会技術研究会顧問)  この「 17 条の心得」は 2023 年 7 月 29 日に議会技術研究会が主催した新人議員講座の際におまけの資料として参加者に配布したものですが、予想外の好評で後日、削除した部分も元に戻してはどうかという要望をいただきました。そこで「 17 条の心得」という最初のタイトルはそのままにして 13 項目を復元・追録し、条項も通し番号に付け替えました(追録したのは 3 , 5 、 7 ~ 11 、 18 、 19 、 22 、 24 、 25 、 30 の各条)。 追加しようと思うと、正直いって、触れたい問題が次々に浮かんできます。例えば、会派の問題は、とくに政令指定都市や都道府県などの大きな議会では素通りできない今日の議会改革上の大きな課題ですが、この「 17 条の心得」で触れると中途半端になりますので、これら大規模議会の特殊な問題については別途考えることにして除外しています。 「条」を付したのは一...

新人議員の17条の心得

  議会技術研究会という組織がある。自治体という政府を運営する主体は、政治主体の住民と地方自治の制度にのっとって仕事をする長、議員(議会)、職員の 4 者だが、歴史的にみて議員・議会の改革が一番遅れてきた。その改革がはじまったのは 2006 年に栗山町議会が議会基本条例を制定して以来で、この栗山町をはじめ福島町、芽室町などの道内の先駆議会が全国の議会改革の進展に貢献してきた。こうして議会が住民の代表機関として力をつければ、自治体は名実ともに住民の身近な政府として成熟するのではないか。そんな期待のもとに設けたのがこの研究会である。西科純、渡辺三省を共同代表、阿部忠彦事務局長、松山哲男、辻道雅宣、私が顧問。全道の 100 名以上の市町村の議員が会員。研究発表や講演会、新人議員向け講座、議員・議会の経験交流などを多角的に行なっている。そうした集いの折、私は「新人議員の心得 17 条」という拙文をおまけの資料として参加者に配布したことがある。ところが予想外に好評だったので、その後 30 か条に増やして再整理してみた。拙文に変わりはないが、本ブログのラベル「明窓浄机」に本日投稿するので、関心ある方はご覧ください。

デイサービスに通うわけ

 畑をはじめ今年で 11 年目。最初にすすめてくれたのは近くに住む樋渡芙美子さんで、 92 歳で亡くなられるまで畑を愛し精を出された。私の畑のお師匠さん。道北豊富町の出身で開拓農家時代のむかし話をよくしてくれた。とても頭のシャープな人だった。その彼女、元気なのに週 2 回デイサービスに通っていた。理由を尋ねてみた。「本当はあんな幼稚園みたいなところに行ってチイチイパッパやりたくない。毎日畑に来たい。だけども友達をたくさんつくらないと収穫物がさばけない。もらってくれる友達をつくるためにデイサービスに行っている」と。言葉遊びにも似たユーモラスな表現と思いきや、畑には友達がたくさん訪れて樋渡ワールドを楽しんでいた。樋渡さんが耕していた畑は、隣で耕している方と私の 2 人で引き継いでいる。彼女が力を込めていた花畑は私たち以外の人をふくめてみんなで守っていくことにした。樋渡さんは開拓時代が偲ばれるといって、大型の夕顔には格別の愛着があった。今年の畑は雪どけが早い。そろそろ作付けの構想を練る。樋渡さんが逝って 5 年になる。今年は彼女手づくりの道具小屋が建っていた辺りに、特大の夕顔を育ててみたい。カタクリ(11)    

知的空白の埋め合わせ

  妻の昭子は相変わらずの読書三昧。私の読書の量と力は落ちる一方。でも多少は読む努力をしている。明治維新、国民国家の基礎となる「地方制度」の形成は、天皇制とならんで最重要の課題。維新政府は、江戸時代の農民(人口約 3,000 万の約 8 割)の生産と生活の単位であった村(約 7 万)の仕組みと旧習を壊して、集権的な近代国家の地方制度に組み込んでいく。このプロセスのもつ性格や事情はその後、そして今日の地方自治にも少なからず影響を与えている。そこで大学の講義「地方自治論」では「近世の村の自治」についても触れたが、如何せん知識と材料の不足で概略に止めざるを得なかった。ところがその後、歴史社会学とでもいうべき分野で江戸時代の村の研究がすすみ、村の成り立ちや運営、人々の生産や生活の実体について手ごろな研究書・解説書を読むことができるようになった。渡辺尚志氏の『百姓たちの江戸時代』などはその代表的な著作。近ごろそれらを読んで自分の知的空白部分を楽しみながら埋め合わせている。それにしても高校生のころ(昭和30年代)まで農村・農業の世界にいた私にとって、それは江戸時代に近い世界であったことをあらためて認識させられた。庭の花 (数字は開花順番) →オドリコソウ( 7 )、ナニワズ( 8 )、スミレ( 9 )、キクザキイチゲ(10)  

各国幸福度、日本人最下位

 3 月 21 日付の本ブログで「後進国に近い中心国状況」と題して、各種メディアが報道する日本の国際的な地位に関する諸指標の一部を紹介したが、今後も目にとまり次第このブログに記録していきたい。→世論調査会社「イプソス」が昨年 12 月から今年 1 月にかけて実施した調査結果を 8 日、公表。調査は世界各国の人々の幸福感などに関するもので、日本を含む世界 30 カ国の 23,765 人を対象にオンラインで実施。この調査で、「現在の生活の質はとても高い」と答えたのは 30 カ国平均で 42 %に対し日本は 13 %、「 5 年後には生活の質は今より良くなると思う」は同平均 53 %に対し、日本は 15 %と、回答した国のなかではともに最下位になりました。現在の状況を「幸せと感じていない」と回答した日本人にその理由を尋ねたところ、「経済的な状況」が 64 %と最多でした。「時間にゆとりを持ち、趣味や家族との時間を大切にしたい。金銭的にもう少し余裕があれば理想的」などのコメントが寄られました。同社の内田俊一代表取締役社長は、「経済的に苦しいと感じていることが幸福感に大きな影響を与えている」と述べています (しんぶん赤旗 2025 年 4 月 10 日号より抜粋)。   ワスレナグサ(6)  

タケノコご飯に舌鼓うつ

  昨日は、生活クラブ生協から届いた立派な孟宗竹で、タケノコご飯と土佐煮に腕をふるった。時間をかけて丁寧に下準備をし、しっかり手順をふんだのでできは上々、舌鼓を打った。わが家は、というより私は本州植物の孟宗竹や真竹は食わず嫌いであった。これらは北海道では生育しないし、ドサンコの私はタケノコといえばササ竹か根曲がり竹しか知らず、これこそが山菜の王様だと思い込んでいた。初めて孟宗竹を見たのは学生時代、昭子と清瀬の平林寺を散策したときだが、そのときは「巨大なタケノコがあるもんだ」と驚いただけ。それから十数年。あるとき恩師の松下圭一先生がご家族と食卓を囲んで「今日はタケノコご飯だ!」とほほ笑む大写しの写真が朝日グラフに載ったことがあった。直後、これが話題になったとき、先生はタケノコご飯を知らない私を不思議がり、とにかく一度食べてみよと進言された。それ以来である。昭子は、私が改心?したことを喜んで美味しいタケノコご飯をつくるようになった。私はすっかりやみつきになって現在にいたる。いまは昭子に代わって私がつくる。ふり返ってつくづく思う。あのタケノコご飯知らずの十数年は人生における貴重な時間の損失だったと…。エゾエンゴサク( 5 )。    

森はなぜ人の心を癒すのか

 むかし「森はなぜ人の心を癒すのか」と題して市民科学研究機構を主宰していた重野廣志さんの雑誌 「辺境」に拙いエッセーを投稿していたことを思い出した。以下再掲。 [1999 年 4 月 15 号 ] → 何百万年の昔、人類はアフリカの森から平原へと旅立った。この悠久の歴史のなかで文明生活は 1 %にも満たない。だから長い森の生活の記憶はいまもヒトの DNA の奥深くに刻み込まれているはずだ。森に入れば心が癒されるのは、その DNA のなせるわざに違いない。森の DNA は一生のうち 2 度頭をもたげる。文明生活の重しに抑圧されない幼少期、森の DNA は子どもを神秘と驚異の世界に誘う。グリム童話やアンデルセン童話の 4 割に森や木が登場するというのもうなずける。仕事に生活に忙しく明け暮れる成年期、森の DNA は一時的に後退させられるが、加齢が進んで覆い隠していた夾雑物がとれてくると森の支配力は再び戻ってくる。 DNA からみれば、幼年期と高年期のこの森願望こそが人間の自然な姿ではないか。森の DNA の発露にもっと自由を与えれば、人間の精神生活は豊かになる。森との触れ合いに人間の生き方と知恵が試されている。若葉が萌える春の妄想。 *        * 同年、子どもの日にも日記に「衣をはぎとった生身の姿」と題してこんなことを綴っていた。進歩がないというか、思いはいまも変わらない。「 1999 年 5 月 5 日の日記」→子どもの日。寝転んで、むかし買って積んだままにしていた河合雅雄(生態学者)の『子どもと自然』(岩波新書)を読んだ。「哺乳類中、目として森林の中で樹上生活を確保したのは霊長類だけである。つまり、霊長類は緑の中に適応しきった動物なのである。われわれが緑を求め、緑がない所ではこころが落ち着かずいらいらし、緑の中でこそはじめて安心感に浸れるのは、遠い祖先から受けついできた系統発生的な適応感覚によるものである」。河合はこれを「内なる自然」という。そして「人類は多様な文化的衣装をまとい、人間の本性を覆いかくしてしまった。人間とは何か、という問題の解明が難しいのはそのためである」とのべ、次いでこの「衣装をはぎとった生身の姿は、どうすれば見ることができるか。」と自問して、文明にまだ汚されていない発達初期の幼児とヒトの生物的基礎をなす...

教養なければただの貧困

庭のスノードロップ、フクジュソウ、クロッカスが日毎に存在感を増す。カタクリやエゾエンゴサクも落ち葉を持ち上げ、昨日はチオノドクサ( 4 )が紫の可憐な花をのぞかせた。これら春の草花は故郷の谷洋太郎・和子夫妻の農場からきたもの。谷一家は戦後まもなくからわが故郷の高台に入植して乳牛を飼ってきた。一貫して牛糞と堆肥の有機肥料にだけ頼った牧草で健康な牛を育てた。家屋も農場も自然の一部であるかのように周囲の風景に溶け込み、牛舎はタヌキも出入り自由で、子ダヌキは子猫と一緒に牛乳をすすっていた。牛が日除けにする牧場中央の大きな林は山菜の宝庫。タラの芽、ウド、ギョウジャニンニク、ユキノシタ、落葉キノコ、などなど。春と秋の山菜の季節、和子さんの同級生たちが訪ねてきては旧交を温め採取を楽しんでいた。口数の少ない洋太郎さんが晩年のあるとき私に訥々といった。「もっと上の学校に行きたかった」、「自然を好んで生きてきたが、教養がないとただの貧困になる」と。谷さんの心に長く宿ってきた思いだったに違いない。夫妻は子どもの教育に力を入れ 2 人の兄妹を大学に進学させた。わが家の春の庭の花はありし日の谷夫妻をも映し出してくれる。

ミズナラの向こうに浮かぶ村

 家に接した防風林にはミズナラが一本ある。昨年からドングリをつける。昭子が カシワ の木と思い違いをして、中札内村の小田中刻夷村長から苗木をわけもらったのだが、実はミズナラだった。それでも美しい中札内村を想起するには十分だ。私たちはこの村に魅せられて、かつては夏の一時を村経営のフェーリエンドルフ(森に配されたドイツ風の瀟洒な貸別荘)で過ごした。ズナラはこの一角からいただいた。遠くに日高山脈を望みつつ、村中を走る防風林を満喫。村は早くから農村景観を大切にし、個々の屋敷についても花と緑の育成に余念がなく、女性たちをイタリアに「花づくり留学」させたほど。「在村型離農」といって村民が離農しても村にとどまれるよう福祉に力を入れる。カシワの森にたたずむ坂本直行記念館や相原求一郎美術館は村の文化のグレードを高める。基幹産業はむろん農業。畑作と酪農が連携する循環型有機農業を「中札内農業」として確立し産品をブランド化。美しい村だからお菓子の六花亭も進出。自立精神が旺盛な村。私は東京の友人にもフェーリエンドルフを薦めた。だれもが中札内村と十勝に満足した。十勝には勧めたい町や村がたくさんある。  

「50×60=3000」の哲学 

 道北にふれながら下川町を語らないでは叱られそう。けれども、下川町のまちづくりはボリュームがありすぎて、その歴史、精神はもとより優れた施策の内容をこのブログではとても書けない。出会いの一コマだけ記そう。 1994 年、新聞の一段記事を見て同町の森づくりに興味を抱いて訪問したのが最初だった。快く迎えてくれた原田四郎町長は、営林署の統合、銅山の閉山、 JR の廃線そして人口減少と、「下川には過疎化の材料が全部ある」と、町のおかれた厳しい現状を話されたあと、森とともに歩んできた町の歴史に思いを寄せ、今後も森の町として生きる覚悟を決めていると熱く語った。「下川は毎年 50ha 分の樹木を伐採するがただちに植林して 60 年育てる。これを循環すれば環境破壊は起こらない。そのために国有林の買収をふくめて 3000ha の町有林体制を築く」とも。さらに帰り際、「橋や建物はつくった瞬間から朽ちはじめるが、木は植えた瞬間から価値を増す」と念を押された。それ以来私はこの「 50 × 60 = 3000 」の森づくり哲学に魅せられて、足繁く下川町に通った。下川町の人たちは「森林」と書いて「もり」と読む。原田町長が「森林は光り輝く」 と揮ごうした顕彰碑が下川町の春の森の芽吹きとともに脳裏に浮かんでくる。クロッカス( 3 )。                                                   *                * 少し書き足りないので追加したい。原田後の下川町のまちづくりは、原田精神を引き継いだ安斎保町長のもと、山下邦廣さん率いる森林組合の多角的な事業展開と、政策マン・春日隆司さんらが繰り出す役場の諸施策との絶妙なコラボが功を奏して、 2003 年だったと思うが、審査の厳しい世界基準の FSC (森林管理協議会)の森林認証をいち早く取得、下川町のグレードをいっそう高めた。こうして市町村有林をもつ約 40 の道内市町村が下...

森のしずくと六七さんと

この時期になると、新聞などでシラカバの樹液に関する記事を時々見かける。カエデの樹液、すなわちメイプル・シロップはひろく知られているが、シラカバの樹液はさほど一般的ではない。淡い白濁色でほのかに甘い上品な味がする。これを町の特産物にしようと最初に着想したのは道北の美深町で、 30 年ほど前に「森のしずく」と名づけて開発をはじめた。美深町は自民党の道議会議員で議長を務めた故西尾六七さんの故郷。六七さんは戦後最初の選挙で町長になって以来、一貫して自治体政治に情熱を注いだリベラル思想の政治家。勉強家で地方自治に造詣が深く北大に赴任した直後から晩年まで親しくしていただいた。「札幌の道議は地方を知らない」が口癖で、そのために議長時代に工夫された試みが、後に私が道議会に地域別常任委員会の設置を提案するヒントになった(ラベル「一言閑話」参照)。美深町を幾度も訪ねてまちづくりの現状や課題を多々教わるなか、チョウザメの養殖とともに出会ったのが「森のしずく」である。昔からシラカバは「馬鹿の木」と揶揄されて利用価値が低く見られてきたが、「森のしずく」という清新・清涼なイメージで再評価されたことに目を細めた。拓北の森のシラカバももうすぐ鼓動を打ちはじめる。美深町のたたずまいと六七さんの面影がしのばれる。  

小鳥たちに癒される一年

  庭の小鳥たちの動きが忙しなくなってきた。まもなく地鳴きがさえずに変わり繁殖期を迎える。昨日は庭にキジがきた。 シジュウカラ 、ハシブトカラ、ヤマガラ、ゴジュウカラ、 ヒガラ などのカラ類、アカゲラ、スズメ、 シメ 、ヒヨドリは庭の年中常連。ナナカマドに群れていたツグミはもう去った。まもなくマヒワ、アオジ、コムクドリがやってくる。ハイタカ、カケスは時々だがこれも常連。ハイタカは窓から 3 m先で勇猛な狩り。森が淡い緑に覆われると、まずウグイスが、続いてアリスイ、エゾセンニュウ、アカハラ、シロハラ、クロツグミ、アオバトが存在を告げる。私はこの森からの一声が一番待ち遠しい。数年前までは春先よく飛来した アトリ 、レンジャクはいまは途絶え、コゲラ、キクイタダキ、シマエナガ、ウソも庭では見かけない。小鳥の世界も変化していく。都市化につれてトビからカラスに制空権が移り、羽音激しく急降下するオオジシギも聞かなくなった。畑の上空ではヒバリがさえずっている。 4 月下旬、畑でコヨシキリが「出てこい」と叫んだら農作業開始。 5 月下旬、カッコウが鳴いたら種まき。駄洒落一句→「 あっ鳥 だ 日柄 もいいとやってくる」「 シメ が 占め 庭のえさ台 しじゅう空 」  

難しい言葉で散歩する人

 雪がとけて散歩する人が増えてきた。大手を振って急ぎ足で歩く人、ペットと話しながら行く人、足を止めて草木の芽吹きに見入る人…。昨日は驚いた。小雨のなか見かけない高年の男女が家の前を通る。女性が「妹さんたち元気?」と問えば、男性は「カイロウドウケツ」と。女性は「ホホホ…」。耳を疑った。「カイロウドウケツ」は「偕老同穴」のことだろう。もちろん日常用語ではない。かつて読んだ『福翁百話』だったと思うが、福沢諭吉は確か「一夫一婦偕老同穴」と書いていた。夫婦たるもの愛情を育んで生涯寄り添って生きるべしという道徳論だ。こんな言葉で通じ合えるのはどんな人たちなのだろうか。ついでに一言。諭吉は「一身独立して一国独立する」のだから、国民たる者は「独立自尊」の「市民」(いちみん)たるべし、と。諭吉を象徴する言葉だ。けれども、その一方で、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と人間平等をいいながら、この市民をつくる子育てを担うのは妻だから、もし女性が血統、健康、知能の一つでも欠いていたら結婚するなともいう。今日の人が聞いたら女性蔑視、人権無視と驚くだろう。諭吉も人の子、時代の拘束は免れ得なかったということか?    

街の美を盗む5つの悪モノ

 長い間、さまざまな街を歩いて思い続けてきたことがある。街並みの景観から美を盗む 5つの 悪モノがいる、と。クモの巣の下の生活を思わせる張りめぐらされた電線、まるで人間を鳥かごに入れたかのような金網フェンス、ケバケバしい巨大広告物、歩道に乱雑にはみ出した各種自動販売機、そして決定的なのが街路樹の乏しさ。この街路樹の欠如が他の 4 悪をいっそう際立たせてしまう。戸建ての家屋やビルは単体としてみれば、デザインをふくめ美しくなったのに、街が全体として美しくならないのはこれらの複合のためだろう。頭の CG でこの 4 悪をとり除き、 1つの 善を加えて街のたたずまいを想像してみよう。どんなに街が美しくよみがえることか。近年、自販機については相当改善されている。反面で目を覆いたくなるのが IT 各社が競いあって敷設する空中架線の増大だ。美観を損なうだけでなく、大きな災害が発生したとき、緊急対応の一番の障害になるのは倒壊した電柱+架線ではないか。ついでにもう一つ。乱雑に放置された裏庭のこと。裏庭は自分の私有であっても隣家の表庭の延長と考えれば、さほど自由な空間ではない。できれば利用について隣家に一声かけるパブリック・センスがほしい。

春は多忙の食いしん坊一家

 森と防風林の春は樹木の根元からやってくる。太陽熱を吸収した木々の根元から雪どけがはじまり、円を描くようにひろがって森の雪が消えていく。あとを追うように、フキノトウが落ち葉をもたげて姿を表わす。フキノトウはわが家の春一番の山菜で、油みそ炒めは春の風物詩。独特の香りと苦みは春の森の目覚めを思わせる。あと 2 , 3 日で採取できそうだ。山菜二番手は防風林のシャク。これも 1 週間後には最初の採取の時期を迎える。浜益村(現在の石狩市浜益区)送毛で漁業を営んでいる友人、本間晃・千津子さん夫妻のところからいただいて移植したもの。石狩方面ではいたるところで見かけるが、それ以外では見かけない植物だ。当地では春一番の山菜といわれているようで、おひたしにする。移植した当時は一株だったが、いまはあちこちにひろがり、背丈が 50 ㎝前後に成長するとノラニンジンのように伸びた茎の先に疎らな白い花を揺らゆらさせる。庭のキトピロ(通称・ギョウジャニンニク)も芽が出はじめた。ニラに替えてこれを用いた餃子は天下一品。ウドのきんぴら…などなど、これから他にも春の山菜料理が目白押し。 4 月、 5 月、食いしん坊のわが家は毎年忙しくなる。