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7月, 2025の投稿を表示しています

ようやく雨が降ってくれた

 農家にようやく笑顔が戻ってきた。畑まで徒歩で4,5分の距離だが、途中に2軒の農家がある。 3 日前までは畑に呆然と立ちつくして周囲を見渡す姿が痛ましかった。ようやく小一時間ではあったが強い雨があって、今朝は安堵の表情がうかがえた。私のような小規模な家庭菜園なら少し無理をすれば水やりも可能だが農家は雨を待つ以外にすべがない。天候に左右されずに製品をつくれる工場とは違う。作物がもっとも成長するこの時期、高温が続きしかも 4 週間も雨がなければどうなるか推して知るべし。 5 日ほど前、畑に出ていると参議院選挙の候補者カーが細い市道を通過していった。私が候補者なら畑で作業中の人たちに「私も心が痛みます。雨を待っています。」と、思いを共有すべく車から一声かけるが、名を連呼して通過しただけ。思わず心に浮かんだ一言→「悪名も無名にまさると連呼する」。ニンニクを収穫したが小粒で去年のできとは大違い。とりあえずの雨で畑に生気がよみがえりはしたが、この間の雨なしの影響は後々まで響くだろう。大好きなインゲン豆だけは水やりを欠かさなかった。功あってようやく花が咲きはじめた。だが雨の代わりはできない。記録もれ→テッセン(ピンク 140 )  

声はすれど姿は見えず

 もう長い間声はすれど姿は見えないアオバトが気になっている。 6 月の半ばころから森の奥のほうで「アオー、アオー」と低い声で鳴く。あいの里にくるまでは知らなかったハトだ。「アオー、アオー」と鳴くからアオバトなのかと思ったが、図鑑で調べると明るい緑色のきれいなハトだ。あいの里以外では弟子屈の屈斜路湖畔でしばしば聞いたがやはり姿は見えなかった。よほど警戒心が強いのであろうか。どこでも見かけるキジバトは冬季は暖地に移動するが、アオバトはさらに遠く南西諸島に渡って繁殖するらしい。私の住む北区あいの里は、 1980 年代に大規模な宅地開発がはじまり、現在までの中間くらいの時期に私たちは越してきた。そのころに比べるとさらに都市化がすすんだわけだが、それにともなって鳥の世界もずいぶん変化した。最初は制空権がトンビからカラスに変わった。渡りの世界ではオーストラリアから飛来するオオジシギ、春先には必ず集団でやってきたアトリやレンジャクは近年姿を見せなくなった。冬季は津軽海峡から本州に渡るはずのヒヨドリは留鳥化している。いまは朝の 4 時半だが、書斎の窓からアオバトの声が聞こえる。一度は見てみたい。開花→ミソハギ( 138 )、記録もれ→キスゲ( 139 )

巣から落ちたスズメたち

 子育て中の小鳥はこの時期バードテーブルにこないが、まもなく子連れシジュウカラがくるだろう。親ほどに成長しても羽をふるわせ黄色いくちばしをひろげてエサをねだるヒナはなんとも愛らしい。いま庭で忙しないのはスズメ。隣家の換気口に営巣してエサ運びに忙しい。以前、近所の田口睦子さんから『小さなスズメの話』(文芸春秋社)を借りて読んだことがある。 1940 年代のロンドン。音楽家のキッブス夫人が孵化直後のイエスズメを拾って 12 年間、老衰するまで一緒に暮らした記録だ。感情表現を抑えてスズメの行動をしっかり描写しているから貴重な本とされている。スズメの寿命は自然状態では8年ほどらしい。スズメの名はクラレンスだったと思うが、野生の本能と人間の環境の狭間で、歌をうたうなどさまざまな才能を発揮することも記録されている。南区の中島に住む友人の山岡薫代さんも散歩中に拾った飛べないヒナを 13 年も世話をしていた。山岡さんもこの本を読んで、クラレンスの記録を抜く価値あるニュースに違いないとテレビ局に知らせたら「自然の摂理にもとる行為」と拒否された。自然の摂理はなんとも難しい…。落ちるなスズメ!

喉薬で腹痛が治る人の話

 7 月 4 日は昭子の誕生日だった。 26 年間も病気の後遺症と付き合いながらよく頑張ってきた。 7 月 4 日はアメリカの独立記念日だ。自立の意識を強く持って過ぎしてきたから、昭子にふさわしいいい誕生日だと感心する。昭子を最初に見たのは大学に入学した直後、大講堂で行なわれた新入生ガイダンスのときだった。田舎者の私は壇上でテキパキ応答する数人の女性 (そのなかに昭子も) を見て、大都会の女性はさすがにすごいと目を見張った。次は 2 年後のゼミ。井出嘉憲先生が年度途中で留学したため、行き場を失った私を大原光憲先生が誘ってくれた。そのゼミに過日このブログに書いた須藤幸世さんと一緒に昭子がいた。ゼミの合宿で千葉県に調査に行ったとき私は腹痛を起こした。昭子は親切に手持ちの薬をくれた。功あって?すぐに回復。ところがこの薬、なんと喉薬のトローチだったとあとでわかった。喉薬で腹痛が治る、なんとも単純な男とみんなにからかわれたが、それからは昭子とは一緒に勉強する機会が増え、卒業 2 年後に結婚。彼女は発病まで 32 年間家事を取り仕切ってくれた。私があと 6 年頑張ればイーブンになる。時はジェンダー平等の時代だ。

待ち遠しい土用の丑の日

 土用の丑の日が近づく。定番はウナギ。わが家もこの日にかこつけて、普段は高くて手が出ないウナギを年に一度いただく。「夏バテ防止のため」などという根拠なき俗説を信じたふりをして…。こんな風俗いつころからか。時代考証の本によれば、江戸中期の鰻屋が商売の夏枯れを防ぐためにウナギを食べさせる策略をめぐらせたのがコトのはじまりという。ちなみに、コメについても「百相場」といって銭百文で買えるコメの量を目安に乱高下が激しい米価を注視していたとも書かれていた。庶民の苦しい食べ物事情は江戸時代も現在も変わりないが、ウナギの値段は江戸末期ころから高くなったらしい。私は、畏友の西寺雅也さんが市長だった岐阜県の多治見市に自治基本条例の講演に行ったときいただいたウナギの蒲焼が忘れられない。大げさにいえば「日本一の蒲焼」だと思った。そのあと西寺さんは日本一ハイレベルの自治基本条例(市政基本条例)を制定された。時が流れてそのときの講演内容はもうおぼろげだが、あのウナギの味はしっかり覚えている。資源の減少はじめ今日のウナギ事情の厳しさ複雑さ知りつつ、それでも私の舌は土用の丑の日を待っている。開花→トケイソウ( 136 )、オオウバユリ(137)

これだ!スイカの虫かご

 炎天続きだが日毎に大きくなるスイカに元気をもらう。スイカの想い出を一つ。小学 6 年の夏休みのときであった。明日から 2 学期というのに、遊びほけて自由研究(当時は「工作」といった)がまったくできていない。心中穏やかならない状態で、たまたま父と畑のスイカの出来栄えを見回った。熟するにはまだ時間がかかるが、たくさんなっているスイカを見て、一瞬「これだ!」と閃いた。躍る心を抑えて秘かに直径 20 ㎝ほどのスイカをもぎに行く。包丁で左右 8 ㎝、天地 4 ㎝ほどの長方形の窓をくり抜き、中身をスプーンでとり出して空洞にする。できた窓には適当な間隔でマッチ棒を縦に差し込む。これでスイカの虫かごが完成。エサをやらなくてもスイカ自体がエサになる。素手でキリギリスを捕まえる特技もある。数時間前の暗雲は晴れ一転爽快な気持ちに。翌日この「偉大な発明品」を携えて意気揚々で登校した。藤井正先生はほめてくれ、級友たちは面白がった。ところが後日、スイカが消えたことに気づいた父から「一番できのよいスイカだったのに」と叱られ、着想はよいが相談すべきだと諭された。相談すれば父はきっと別のスイカを選んでくれただろう。開花→マジョラム(132)、アジサイ(133)、記録忘れ→ヤナギラン(134)、エゾカンゾウ(135)  

七夕と「天の川トンネル」

  昨日 7 月 7 日は七夕。北海道の七夕は一月遅れの 8 月 7 日。願いを込めた色とりどりの短冊を竹の枝に飾りつけるのが定番だが、私たちが子どものころは、竹の代わりに川辺からヤナギを切り出してこの小イベントを楽しんだ。大人になって七夕への感性は失ったが、 20 年ほど前のあるとき、おもわず童心に帰ったような心のときめきを覚えたことがある。そのころは、北海道のさまざまな地域の風情に接しようと、遠くへ出かける際にはできるだけ同じ道を通らないよう心がけていた。中頓別町からの帰途だった。音威子府→旭川→札幌ではなく、あえて中頓別→歌登→仁宇布(美深)へと草木深き山岳の 120 号線を選んだ。歌登と仁宇布のほぼ中間地点で「天の川トンネル」の名が目に入り思わず車を止めた。両出口付近には「牽牛橋」と「織姫橋」が架かっている。「牽牛、織姫、天の川がそろったロマンチックな道路、まるで『七夕道路』だね」と同道の昭子と感心して帰宅した。まもなくこのトンネルは開業間際に廃線になった幻の鉄道、美幸線(美深・枝幸間)のトンネルを活用したものだと知った。そのときから、「天の川トンネル」は一種の物語性を帯びて私の心に収まっている。七夕の心象風景。

再・パブコメについて

 6 月 29 日に、「パブコメは市民参加ではない」と書いたところ、「厳しすぎる」というコメントをいただいた。ある問題について行政がパブコメを実施したところ、 A 、 B 、 C …という多様な市民の意見が寄せられこれを公表したとしよう。このパブコメ情報を見て、 X さんは B の意見になるほどと感心し自分の考えを修正した。 Y さんは自分の意見は少数意見のようだが変えようとは思わなかった。などなど、市民の意思は初めから固定的・確信的なものではなく、他者のさまざまな意見に触れて、自分の意見の正しさをあらためて確認したり、触発されて考え直したりするなど、揺れ動きながらより確かな意思形成に向けて変化する。この変化こそが大事である。この再考に資する初期情報として、とりあえずパブコメを実施し公表することには意義がある。では再考の結果「より確かさを増した市民意見」はどう反映されるのか。その反映と合意の形成をめざして行なうのが、行政・議会と市民、市民と市民が討議する市民参加である。「情報なくして参加なし」とされるように、パブコメの情報公開としての意義は認めつつも、「討議」なきパブコメを市民参加と同列視はできない。開花→ニワトコ(黄 124 )、サビタ( 125 )、アップルミント( 126 )、アナベル( 127 ) , ゲンノショウコ( 128 )、チコリ( 129 )、スイカ(庭用 130 )、トマト(庭用 131 )  

告示日に憲法前文を写す

 早くも 7 月を迎えた。季節はどんどん進んでいく。四季は夏、二十四季は夏至、七十二候は半夏生。今日は参議院議員選挙の告示日。写経をまねて日本国憲法の前文を以下にあらためて書き写したい。きちんと向き合って手を動かせば背筋も伸び頭もすこしは動くだろう。開花→ホサキシモツケソウ( 119 )、ニワトコ(赤 120 )、キキョウ( 121 )、ノラニンジン( 122 )、キンシバエ( 123 )                   *        *  日本国民は、正当に選挙された国会における代表を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。  日本国民は、恒久の平和を念願し、人類相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。  われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信じる。  日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。