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5月, 2025の投稿を表示しています

貧乏性の性分を活かして

 昨日は暖かく風もなくてよい天気。タネ蒔きと苗の植えつけをひと通り終えた。ところがフォークとクワの柄と金具の接合部分が壊れてしまった。ともに隣の畑を耕していた樋渡芙美子さんから譲り受けたもの。年月が経って腐食したのだ。買い替えれば 1 万円はするだろう。出費も痛いが、それよりも樋渡さんの想い出の道具だからなんとか修繕できないかしばし考えた。まずフォーク。思いついたのは、金具のなかに残った柄の腐食部分をノミでとり出し、そこに古くなったシャベルの柄をカンナで削って差し込むこと。次はクワ。金属部分に差し込んである柄が緩んだので、これは薄く切った板を打ち込んで隙間を補強し、さらに水に数時間つけておけば木だから膨張して揺がなくなること。われながら2つとも実にうまくいった。あと何年畑ができるかわからないが私がやる間はこれで十分もつだろう。なにかにつけすぐに捨てないのが私の性分で、必ず自力で修繕の道はないか考える。要するに貧乏性ということなのだが、人生をふり返ってこの性分はずいぶんプラスに作用した。子どものころ、クワを小川に浸しに行くのは私の仕事だった。幼児体験いまに生きる。開花→ギューリック(フランスギク 78 )、ドウダンツツジ( 79 )、ボケ( 80 )、ヒメジオン( 81 )  

小鳥の名で認知症の診断?

 朝 3 時すぎ東の空が明るくなって小鳥たちが一斉にさえずりはじめる。昨日きたエゾセンニュウは今朝も森の東側で鳴いている。カッコウも明け方から夕方まで一日中森のなかをせわしく移動している。ヒバリは北の畑の方角から声はすれど姿は見えず。遠くのツツドリは霧笛のよう。けたたましく騒ぎ立てるコヨシキリもだんだん家の方に近づいてきた。キジも家の脇の緑道を歩いている。まもなく「アオ―、アオ―」と遠くからアオバトの声が届くだろう。そうなれば本格的な初夏になる。アカハラ、シロハラは庭に水を飲みにやってくる。庭の年中常在組はアカゲラ、シジュウカラ、ヤマガラ、ハシブトカラ、ヒガラ、ゴジュウカラ、ハシブトガラス、スズメ、カラス。季節によって、カワラヒワ、マヒワ、キバシリ、キクイタダキ、ハイタカ、レンジャク、コゲラ、コムクドリ、カケス、カワラヒワ、シメ、メジロ、アトリ、キビタキ、シマエナガ、ツグミ、ウソなどが。認知症がすすめば好きなもから名を忘れるそうだが、これだけ名を覚えているのだからしばらくは大丈夫か。それでも姿や声にふれて名を口ずさみ、認知症の自己診断している自分の姿がなんとも滑稽だ。  

友遠方へ帰る寂しからずや

 たった 2 日間ではあったが、昭子と私の大学同学年の親友・須藤幸世さんが兵庫県宝塚市から訪ねてくれて楽しい一時を過ごした。手紙・電話・メールは頻繁だったが会うのは久しぶり。大学の構内で「こんにちは」と挨拶を交わしてはじまる日がそのまま続いているかのような、長い空白をまるで感じさせない 2 日間だった。彼女が愛でる小鳥たちや花々、読んだ書の数々のことから、混迷と汚辱まみれの兵庫県政まで、話題が尽きることはない。あっという間に時間が過ぎてしまった。 5 月は、中旬は私、下旬は昭子と大学時代の親友と旧交を温めた楽しい月だった。東京に出向いた私をみんなは「友あり遠方より来る楽しからずや」と歓迎してくれた。その同じ気持ちで須藤さんを迎えたのに、たちまち「友遠方へ帰る寂しからずや」となってしまった。でも元気でいればまた会える。今日の早朝森でエゾセンニュウが初鳴きした。須藤さんの耳に届かなかったのは残念だったが、森の西側の樹木が伐採され、はたして来てくれるか案じていたので、とりあえず安堵した。→須藤さんが帰り入れ替わって→「エゾセンニュウ遠方より来る。また楽しからずや」。明日は畑に出よう。  

北海道世論調査会に感謝

 北海道世論調査会という集団がある。 2009 年ころから新聞社を中心にしたメディアが行なう世論調査を毎月総合的に分析し、そのデータにコメントを付して「直近の世論調査」としてまとめて、毎月ホームページに掲載している。代表は同会の発足以来、北海学園大学の山本左門教授(政治学)だったが、先生が 2013 年に亡くなられてからは、代表を置かずに、公益社団法人・北海道地方自治研究所の元常務理事だった中島章夫事務局長を中心に 10 人の若手メンバーで運営している(同調査会の HP から要約)。山本教授は私の元同僚であり、中島さんは私が同研究所の理事長であった時代の常務理事であったこともあって、調査会発足時から「直近の世論調査」を拝読させていただいている。内容の定番は、内閣・政党の支持率の毎月の変化、政権のあり方に関する世論の変化、物価・関税・政治とカネ・夫婦別性など時々の政治と政策の主要な課題に関する世論の動向など。 17 年間毎月続けておられる努力にはまず頭が下がる。各種メディアの調査を一望状態に加工してくれることは、利便性にとどまらず私たちの頭を鍛えてくれる。感謝とともに同調査会の発展を祈念したい。庭→キングサリが美しい

藤沢周平に魅せられて

 時代小説家・藤沢周平の人生をたどり、その作品の魅力を探った後藤正治の『文品』 (ぶんぴん) という新刊本が、昨日の道新に紹介されていた。「文品」は初めて接した言葉だが、「端正で品位のあるすぐれた文章の意味」だそうだ。早速注文した。私のように高度成長期から安定成長、バブル期に青壮年期を過ごした人間にとって、藤沢周平や松本清張、司馬遼太郎などは忘れがたい作家だ。松本の作品の多くは、時代の背景や特性を色濃く反映させ、かつ反権力を多分に滲ませた社会派推理小説。高校生時代の『ゼロの焦点』『点と線』以来のファンだった。司馬の『竜馬がゆく』『坂の上の雲』は、扱うテーマと展開の壮大さに魅力があり、また『街道をゆく』『この国のかたち』などで示した独特の文明観もおもしろい。けれども私は藤沢がいちばん好きだった。藤沢は松本や司馬と少し違って、社会的な発言はしない時代小説一筋の作家。けれども『蝉しぐれ』が象徴しているように、逆風にあっても誇りを失わず、耐えながら普通に生きる下級武士など、武家社会の傍流で生きるものの悲哀を透徹した文で描いた。経済は発展しても心の疲弊がすすんだ、高度成長期の人間の心象と重ねたのか。その意味で、藤沢は強い想いで、静かに「現代を語る」社会派作家だったと思う。  

1999年5月25日の朝

 26 年前の今朝、昭子が脳内出血を発症した。大手術をへて生還した。医師からは家庭復帰は無理、失語症からの回復も絶望と告げられた。手術を終えて意識がまだ朦朧とした状態のとき、私は「もし神様が手、足、言葉のうち 1 つだけ完全に元に戻してくれるといったらどれを選ぶか」と問うた。彼女は「言葉」と答えた。右上下肢はいまも不全だが、失語症は医師の予想に反して回復した。思い返せばこれが何よりも嬉しい。手足の不自由は他力でも補えるが「意思」は自力で発するしかない。発症直後私の友人の新聞記者・牧太郎君が同病の自らの体験記を送ってくれた。「障害は個性だと思う。この病気をして見えないものが見えてきた」と綴ってあった。 4 か月後、彼女は退院し私たちの新生活がはじまった。見えない今後を恐れるのではなく、何が待ち受けているか好奇心をもって向き合おう、障害を健全な日常を妨げる「異常」としてではなく、私たちの個性ある生活の大事な要素として「日常」化しようと覚悟を決めた。この 26 年間をふり返って、イマがあるのは、本人の努力と大勢の方々の応援はもちろんだが、覚悟を決めて日常を貫いた気持ちの持ち方が大きかったと思う。 *        * 私は大切なことを忘れないため、また頭を整理して冷静に向き合うため、昭子が入院中は毎日、退院後 1 年間も日記をつけた。 A4 判で 200 頁になる。それから 10 年たって、「昔の出来事」として読めるに十分な時が流れたと判断して昭子に渡した。彼女は驚きの表情を浮かべて、自分の記憶から脱落していた期間の自分を補ってくれた。そのなかにはカツラの木のことも書いた。車イスで病院近くを散歩したとき、昭子は遠くのカツラの木を指差し、初めて茫洋とした世界を識別し体で意思を表示した。その直後に言葉が戻りはじめた。あれから 26 年間、一昨年に私と昭子は同時にガンを発症し、同病院、同主治医という稀有な体験をしたが、これをふくめて私たちは悲壮感に苛まれたことはあまりない。昭子は毎日読書を欠かさないし、左手でメールのやりとりもする。頼まれてエッセーなども時々書いている。楽しい思い出もたくさんある。車椅子でフィンランドのヘルシンキに半月滞在した。バルト海を渡ってエストニアの古都ターレンの街も散策。夏の 1 週間の道東旅行は 20 年続け、秋のニ...

心にポッカリ大きな穴

   私たちの住居の西側にひろがる森は宝である。約 6ha の森のなかには畔や小川の名残がそこかしこにある。かつては農地であった。 1970 年代に原野商法として切り売りされた。所有者は 200 人以上で全国に散在する。しかも市街化調整区域でもあるから、一団の土地としての開発は難しく、放置状態が続いてきた。それが功を奏してというべきか、風や小鳥たちがタネを運んで、長い年月をかけて現在の森に成長した。私有地だが、地域のアメニティ資源として、また風雪を和らげる穏やかな環境をもたらしてくれる森から私たちは日々恩恵を授かっている。今春、この森に激震が走った。約 3 分の 1 に相当する北側の部分を、大規模排雪事業者が雪捨て場にするため樹木を皆伐したのだ。雪のある時期だったため気がつかなかった。業者は土地を購入したと説明しているそうだが信じがたい。散在する切り株はあまりに痛々しく、地域の景観は大きく損なわれ、住宅街の一部は西風をもろに受ける。小鳥たちの種類も数も明らかに減少している。 6 月になればこの場を好んでいたエゾセンニュウはどこで鳴くのだろうか。森の空洞は私たちの心にも大きな空洞をつくっている。開花→ナルコユリ( 74 )、ミヤコワスレ( 75 )

4節季72候と季節の趣

 散歩しているとライラック(リラ)の花が美しいが少し寒い日が続いている。「リラ冷え」といわれるように 5 月の末は気温が下がる。ちょうど畑の種まきや植えつけの時期と重なるため、農にかかわる人たちは気をもむ。これは昔からのことだが、近年の北海道は 6 月になれば本州まがいの梅雨を思わせる天気になりがちだ。温暖化の影響であろうか。昔の 6 月はからりと晴れて清々しかったように思う。季節感の乏しい東京在住のころ、私は「旧暦」の節季と候の一覧表を壁に貼って楽しんでいた。旧暦は、季節を 1 月から 3 か月単位で立春・立夏・立秋・立冬と 4 区分、さらに各 6 区分して二十四節季を設ける。この各節季はさらに初候・次候・末候に 3 区分して七十二候にする。要するに 1 年を 5 日単位に 72 に細区分するのだが、各候に季節の特徴を示す文言がついているのがおもしろい。たとえば、 6 月は節季では「夏至」、候は「乃東枯 (なつかれくさかれる) 」( 28 候)、「菖蒲華 (しょうぶはなさく) 」( 29 候)、「半夏生 (はんげしょうず) 」( 30 候)などと表現される。候の説明が正確に実際を反映しているわけではないが風流な趣がある。だが北海道ではもっとぴったりしない。北海道版があればおもしろい。    

面影偲ぶシャガの花

 いまは森と庭がいちばん美しい季節。まもなく森全体が濃い緑の塊になるが、いまはまだ木々の葉の量は幹や枝を覆い隠すほど圧倒的ではないから、沈む夕日を木漏れ日にする隙間がある。概して淡い初夏の紅葉の森から、昼間はカッコウやツツドリが、夕方にはアカハラの美しい声が響いてくる。夜になれば、まもなくエゾセンニュウが「じょっぴんかけたか」と叫んでくるだろう。たくさんの生きとし生けるものたちに交じって、「権兵衛種まきゃカラスが突く」の構図さながら私も畑に追い立てられている。ようやく耕しが終わってこれから天候とにらめっこしながら種まきと植えつけに移る。庭のたたずまいも日々変化している。ズミの白い花と朱のツツジはいまが満開だが、昨日からは空から降るようなキングサリがこれに加わりだした。シャガも本格的に開花して可憐にゆれている。シャガは昭子が小学生のとき亡くなった母が愛でた想い出の花。練馬区の庭から移植した。→亡き母の面影しのぶシャガの花。来週には私たちの学生時代からの親友が宝塚から泊まりにくる。きれいな庭を見せたいと、昨日は一日かけて楽しく庭の清掃と草ぬきに精を出した。開花→キングサリ( 72 )、シラー( 73 )

救い難いバカ大臣の発言

 「政治の形態、課題は時代とともに変わっていく。都市型社会では、政治とは、まず、マス・メディアがつたえる政治家たちの「通俗」ドラマであろう。この政治家たちのドラマには、かつての天・神、君主また国家がかたちづくるドラマの荘厳性・神秘性はもはやなく、政治家は日常会話の話題となって消費されるタレントにすぎない。使い捨て商品なのである。その姿はあまりにも人間的である。政治家は権力による栄光の追求者として登場するが、時折は汚職や浮気をあばかれてのたうちまわるだけでなく、選挙の敗北、政策の破綻、またクーデタによって、舞台から去っていく敗者でもある。」―これは著名な政治学者の故松下圭一が著した『政策型思考と政治』(東京大学出版会 1991 年)の書き出し部分である。現代の市民生活は政府がつかさどる政策・制度のネットワークを不可欠とする。したがって市民は政府を「必要」とするが民主政治なら政府を「変更」しうる。だが市民が政治的に成熟しなければ愚劣な政府・政策・制度しかもてない。救い難いバカ農水大臣のコメ発言で食欲は低下する。が、一方で、政策論を軸に現代市民政治理論を展開した本大著をあらためて想起する。開花→ナナカマド( 68 )、タイム( 69 )、クサノオー( 70 )、ジュランヒトエ( 71 )  

ザ・ソウル・オブ・くず屋

 昨日は朝から一日中畑三昧。畑の作業がはじまると家の燃えるごみは半減する。野菜くずなどの有機質のものは堆肥にするからだ。排出するのは資源ゴミだけになる。そして東龍夫さんを思い出す。 30 年前に町内会を結成したとき、ここなら理想的と目を見張って契約したのが東さんが代表の(有)ひがしリサイクルサービスだった。以来現在までわが町内会はお世話になり続けている。契約後、東さんが、偶然にも妻昭子の東京都立高校の後輩であることがわかった。そんなこともあって私たち夫妻は、東さんが企画あるいは講演する集いに度々参加して、東さんの資源回収業に携わる誇り高き精神と、その実践における地域社会、同業仲間、障がい者への温かい気配り、あるいは札幌市の清掃事業への助言などに接し、東さんの市民事業にいつも畏敬の念をもって共感してきた。そうした東さんの思想と実践を収めた著書『ザ・ソウル・オブくず屋― SDG sを実現する仕事』が 2020 年 10 月に出版された。喜んだのも束の間、出版から 2 か月後に急逝された。享年 69 歳。あまりに早すぎる。残念至極ではあったが事業は東さんのソウル(精神)とともにしっかり受けつがれている。開花→リラ(ライラック 67 )

時間と空間の交差点で

 昨日は「道政改革研究会」の初会合に参加。メンバーは往年の道政改革を担った道庁幹部職員、これに深く関係した研究者・専門家たち。人々はみな「時間」という「歴史」の流れと「空間」という「現在」の世界の広がりの交差する時と場で生きている。「現在」には日々発生する新たな問題をふくめて解決すべき課題が無数に存在する。けれども、この同時的な空間のなかだけで問題解決の矛先を見出すことは難しい。やはり先人たちが培った改革の精神、知恵、経験に学んで、そのなかから「歴史」の経験則を探り当て、それをもう一つの思考軸にしなければ、現在の空間における選択・判断は確かなものにならない。道政に引きつけていえば、道が自主・自立の広域自治体への道を自覚したのは横路道政の時代であった。それを受け継いだ堀道政は、「北海道地方政府の確立」と銘打って、道政改革に果敢にチャレンジした。数々の試みは他府県からも「自治分権時代の府県政モデル」と評価された。この改革はその後の道政にどう継承、あるいは継承されなかったのか。これを検証してみようというのが研究会の趣旨である。力まず楽しく自由にやりたい。早朝カッコウが初鳴き。開花→黒ユリ( 66 )

花と小鳥に追い立てられ

 たった 3 日間の東京だったのに長期間留守にしたような錯覚に襲われる。庭を引き立てていた朱色のえりもツツジと純白のジュンベリーのコラボが終わり、入れ替わってチベットアヤメ、シャガ、ナルコユリ、オダマキ、ハクサンチドリなど小さな花が開花している。ハクサンチドリは 30 年前にノビネチドリと一緒に谷牧場からやってきた。ノビネチドリはいつしか姿を消したが、ハクサンチドリは一株だけが長らえている。気をもたせる花で芽吹きが確認できたときは毎春ホッとする。畑の方は通常ならイモ類はもう芽が出はじめるころなのに、今年はまだ耕してさえいない。コヨシキリなどはけたたましく「早くやれ、早くやれ」とさえずって私を追い立てる。あと 2 , 3 日もすれば今度はカッコウが「今年はやらないのか」とダメ押しにやってくる。キタキツネもキジも「まだ来ていない」と心配気に畑をのぞき込む。このところ東京とほとんど変わらないほどの暖気が続いて一気に初夏の気配が濃くなっている。進む季節、遅れる春耕、焦る気持ち。今日は道政研究会の立ち上げの日。明日から畑へと思いきや、「年寄りは根を詰めるな」と今度はブレーキがかかる。開花 →シャガ( 57 )、ズミ( 58 )、オダマキ( 59 )、イチゴ( 60 )、野イチゴ( 61 )、チベットアヤメ( 62 )、コンロンソウ( 63 )、ナルコユリ( 64 )、シャク( 65 )  

お金持ちは一人もいない

 天候にも恵まれて快適な上京だった。大学 1 年の語学の授業後、何とはなく教室にたむろしていた十数名。気があって在学中はもとより卒業後の 60 年間も交流が続いている。今回の上京は「クラス会」と称しているこの集への参加だった。 5 時間があっという間、話題は尽きない。長い人生をみな 3 面性を持って生きてきた。生活の糧を得るために労働する勤労者として、職業の如何を問わず分業社会で社会貢献する専門家として、そして日々の平穏を祈りつつ家庭で地域で生活を営む一市民として。この 3 面性は時として衝突し緊張感をはらむ。けれども、みんなの話には 3 面性をバランスよく生きようと努力した知的普通人としての生きざまが滲んでいた。「生まれたときも死ぬときも人の世話になる。その真ん中の人生は自分の力であるようで実のところここも 9 割は他者に支えられている。結局は自分 1 割、他者 9 割、これを合わせたのが自分の人生」とある人が率直に人生を述懐。みんな得心した。最後にある人。「我々のもう一つの立派な共通点は金持ちが一人もいないということだ」と。爆笑して散会した。次回はやれるなら札幌でという希望も。さてどうなるか。開花→ムラサキケマン(ケマンソウ、 53 )キング・オブ・ハーツ(タイツリソウの仲間、 54 )、マイヅルソウ( 55 )、ニワウメ( 56 )  

「茨木のり子」を携えて

  今日から 3 日間、昭子はショートステイへ私は東京へ。荷物はホテルに送ったから、持ち物は軽いザック。 1 冊だけ小さな本を入れた。出たばかりの茨木さんの詩集『自分の感受性くらい』。岩波現代文庫として再発行された。 1999 年に昭子が大病したとき、十亀昭雄先生(教育大学名誉教授)が、出版直後の茨木さんの詩集『倚りかからず』を贈ってくれた。政治学者の先生は文芸・音楽・声楽・絵画などの世界にも通じておられて実に感性が豊かな方だった。そんな先生だったから茨木さんの詩集にはきっと私たちの傷んだ心をケアする力があると思われたに違いない。私たちは初めて茨木さんに出会った。それ以降とくに昭子は熱を入れて全集をふくめてそろえ、現在もいつでもすぐ手の届くところにおいている。隣には親友・戸塚美波子さんの詩集『金の風に乗って』が並んでいる。茨木さんの詩は、社会、政治、歴史などと、感性のいたる領域がひろく、テーマにも日常性があって言葉もユーモラスで平易だから私にもストンと落ちる。それとなく潜んでいる価値観も共感できることが多い。読んでいると彼女と対話しているような気分になる。「自分の感性くらい」と「倚りかからず」。もう何度も読んだが、飛行機の座席についたらまた開く。  

裁縫と編み物と感謝と謎

 5 月半ばともなればそろそろ衣類や寝具など季節の入れ替をしなければならない。いまはスーツなどは滅多に着ないから、クリーニング屋さんとも縁が遠くなって、もっぱら洗濯機をまわす。あわせて繕いをする。自慢ではないが、私は子どものころからボタンつけなどを人に頼んだ覚えはない。中1のときだった。村の学校で家庭科の時間と放課後にしっかり基礎縫いと運針を教わっている。過日も長年愛用して捨てがたいジャンパ―の襟が傷んだので、とっておいた別の布を当てて補強。昨日は昭子のズボンの裾上げやゴム通しもした。編み物も習った。毛糸は母を手伝って飼っていた羊の毛を刈り紡いだ。いずれのことも一生懸命に取り組んだ。東京時代の手製のマフラーはいまも使っている。 10 号の棒針と太い糸でざっくり編んであるので暖かい。英国製の高級な羊毛で編んだマフラーもあったが、親しかった池田町の大石和也町長が、「これはいい」といって、安物?マフラーと取り換えていった。裁縫と編み物。教えてくれた先生たちに感謝あるのみ。それにしても中 2 の時札幌に転校して以来、同期の友人たちに機会あるごと尋ねてみたが、私のような学校体験をした人には出会わなかった。どうしてあんなことが可能だったのか。いまだに謎のままである。 開花→コウダソウ( 51 )、オオバナエンレイソウ( 52 )    

竹村泰子さんの想い出

 昨日は自宅の外に確保している書庫に出かけた。書架の一角に自治体首長の著書が70冊ほど並んでいる。竹村泰子さんがこの 3 月に逝去された。この首長の本を蒐集するのに竹村さんに大変お世話になった。戦後の地方自治の制度の変遷は容易に調べられるが、市町村の現場での具体的な展開は、とくに戦後初期の 1940 ・ 50 年代につては記録が少ない。学者も制度解説ばかりで現場の展開には関心を向けていない。自治研究はこれでは画竜点睛を欠く。そこで私は長の著作を探そうと細々とはじめたがなかなかラチがあかない。そんな折1980年代になって国会議員になったばかりの竹村さんにお会いした。竹村さんは「おもしろそう」といって、国会図書館を通して戦後 20 年間の首長の著作リストを作成してくれた。借り出して読み手元に置きたい本は古書店で入手、その 20 冊ほどが書架にある。貴重な本が何冊もあって目から鱗が落ちた。 1 年後、お礼を兼ねて読後感を永田町の議員控室で聞いていただいた。あの爽やかな笑顔で、戦後最初の杉並区長だった新居格の「地域民主主義」について質問してくれたことを鮮明に覚えている。数年前、札幌のクリスチャンセンターでお会いしたのが最後になった。合掌  

その名は「ルビーのしずく」

3月 22 日にスノーボールが咲いて早や 50 日。今朝は 50 番目のスグリ (カリンズ) が開花。かつて藻岩山の福地夫妻からいただいて挿し木で増やして近所にも分けた。小さな白い花は目立たないが、 7 月末には真っ赤な実が庭を彩る。これをジャムにする。わが家の季節行事で数年前まで 20 年間も 30 ~ 50 個ほどつくっていた。初期は昭子が、 1999 年以降は私が引き継いだ。難しくはないが手間がかかる。房から実をはずす、容器の瓶を煮沸消毒、実は軽く煮てから裏ごし、砂糖を 40 %強加える、絞ったレモンを添加してゼラチン状に、容器に移して真空パック。最後にカラーの手製ラベルを貼る。 1999 年の 5 月、昭子は脳内出血を発症して失語症になり、この手順を伝えられない。私は失敗を繰り返しようやく会得した。完成したジャムの大半は親類、近所、友人、知人のところへ消えていく。裏ごしのしずくだけ使うから色は澄んでルビーのよう。最初、病室の昭子を励ますつもりで、照れながら、誕生石にちなんで「ルビーのしずく」と名づけた。「しずく」は美深町の白樺樹液の「森のしずく」から拝借したのだが、以後この名はずっと好評だった。開花→ ヒメイチゲ( 44 )、サクランボ 2 種( 45 ・ 46 )、ジュンベリー( 47 )、えりもツツジ( 48 )、カキドウシ( 49 )、カリンズ( 50 )  

「政府」という言葉の用法

 5月 3 日の憲法記念日にラベル「窓明浄机」に旧稿 3 本を投稿したが、このなかで用いている「政府」の意味が、一般的に使われる用法とは違うのはなぜかという質問をいただいた。英米で政府といえば government と表現する。これは国民国家の政治機構を総称する言葉で、国会(立法)、裁判所(司法)、内閣(行政)、自治体がふくまれる。私が使うのはこの広義の政府。これに対して内閣と行政機関だけをさす狭義の使われ方がある。日本の一般的な用法は後者。その理由。立憲制が発達する以前、つまり 3 権の区別がなかった明治時代に政治機構全体を総称する言葉として「政府」が用いられた。当時のドイツの影響を受けている。また立憲制成立後も天皇主権の政治が続いたため、天皇が信任・任免する内閣や行政官省を政府と呼んだ。さらに内閣や行政庁を政府と呼ぶ狭義の用法は、戦後の日本国憲法のもとにおいても惰性的に引き継がれ今日に及んでいる。自治体を「政府」と呼んだのは美濃部亮吉元東京都知事が最初( 1971 年)で、市民の直接の信託を受けた自治体の自主・自立性を強調するために東京都を「地域の政府」と表現した。以後はこの意味で自治体ではしばしば用いられる。例えば堀達也元知事の「北海道地方政府の確立」など。庭の開花順→ラニュウム( 43 )  

畏友・西科純の珠玉の一頁

 自治体職員のあるべき姿について過去に自治体改革の観点からさまざまな議論が行なわれてきたが、本格化したのは 1980 年代の半ば以降だ。自治体運営に関係する主体は 4 者で市民・長・職員・議員。市民は政治上の主体である主権者、次いで制度上の主体として仕事をするのが長、職員、議員。各主体は歴史上、順次、自己変革に遭遇してきた。最初は市民。 1970 年代の高度成長期、工業化・都市化の急激な進展のなかで都市・公害問題が深刻化し、全国的に自主・自立の市民運動が噴出。その矛先が自治体に向き、「市民による自治体の発見」といわれた。次いで長。選挙で選ばれる長はこの市民の変化を無視できない。そこから市民と長の交流がはじまり、市民参加をはじめとして今日に通じる自治体改革がはじまった。けれども長が市民の意向を受けとめても、職員に政策を遂行する能力がなければ問題は解決できない。そこで 1980 年代の半ば職員の政策・行政能力の開発が大きな課題になった。一番遅れたのは議員・議会で 2000 年代になってようやく改革がはじまった。こうして各主体は歴史のなかで変革の契機をつかんできた。終わりではなくそれぞれの改革の起点である。 *        *     この 3 月末に芽室町を定年退職して、 4 月から 白老町国保病院経営監として再出発した西科純さんが、「北海道自治研究」 4 月号に「住民参加と自治・分権を理念に議会改革から病院経営改革への挑戦を続ける」というエッセーを書いた。たった 1 頁だが深い内容に感動し た。自治体関係者にはぜひ一読を勧めたい。 自治体職員像はいろいろ 語られる。曰、長や議員は「代表」だが、職員は市民に代わって仕事をする「代行」だ。長は職員の「制度上の任命権者」だが市民は「政治上の任命権者」。長は短期で辞める「消耗品」だが、職員は長期勤務する「備品」だから、その能力の洗練が自治体の力量をきめる。表現は区々だが、どれも職員に高い政策能力と行政技術を期待する。エッセーの感想を少し。西科さんが役場の内外を問わず、多彩な活動に取り組んで大きな成果をあげたのは、「市民とと もに 」ではなく「市民として」仕事をしたためではないか。 「市民とともに」とは市民を客体化したいい方だが、「市民として」は、自らも同一権利主体の一市民という認識から発想...

報道の自由度、日本66位

 例によって日本と世界の国際比較介記事の紹介→「国際ジャーナリスト団体『国境なき記者団』( R S F )は 5 月 2 日、 2025 年度版の世界の報道自由度ランキングを発表しました。対象 180 カ国・地域のうち、日本は 66 位で昨年より順位を 4 つ上げましたが、引き続きG7で最下位でした。首位はノルウェーで 9 年連続。アメリカは昨年より順位を 2 つ下げて 57 位。 G 7では日本に次いで低い。 RSF は、米国では経済的苦境から地方の報道機関の廃業が相次ぎ自由度の後退が進む中、トランプ大統領の返り咲きで『状況悪化に拍車が掛かっている』と指摘。(中略)日本に関しては『報道の自由や多様性の原則は一般的に尊重されている』としながらも、『政府や企業が主要メディアの経営陣の圧力をかけることが常態化している』と批判。汚職やセクハラなど『敏感なテーマでは深刻な自主規制が起きている』と強調しました。G7で最も順位が高かったのはドイツで 11 位。その他韓国 61 位、中国 178 位、ロシア 171 位、北朝鮮 179 位など。最下位はアフリカのエリトリアでした。」(しんぶん赤旗 2025 年 5 月 4 日号より。一般紙からも見つけ次第 400 字の範囲内で紹介します。) 開花→ヤマブキ(38)  

人生、最感動の鯉のぼり

  小学1、 2 年の子どもの日、校庭に鯉のぼりが舞った。小中学校だったから 9 学年・ 9 学級の 300 人の生徒が一緒に暮らす。鯉のぼりは新聞紙を用いた手製で、小学 1 , 2 年生の分は中学生が代わってつくってくれた。大きさは学年順。貧しい時代だから布製の鯉のぼりは無理にしても、手製でも絵具は大量に使えない。小学生の 6 匹は少しだけ色づけしたが中学生の 3 匹は墨一色。ササで口の輪っかをつくり、形どった新聞紙を幾重にも糊づけ。ワクワクしながら中学生の手さばきに目を見張る。そして乾燥させること 1 週間。いよいよ掲揚の日、全生徒が春風に泳ぐ鯉のぼりに歓声をあげる。だが感激は長くは続かない。せいぜい 2 , 3 時間。なにしろ新聞紙だから風が強まればちぎれて飛んでいく。最後に残るのが小学 1 、 2 年生の小さな鯉のぼり。つくること 1 週間、眺めること 3 時間。それでも、ふり返って、人生最良、最感動の鯉のぼりには違いない。むかしグリム童話を翻訳した金田鬼一は、子どもの虚心・純真の心があればこそ、人間は「久遠の若さ」を保つことができると書いた。その心を培ったあの学校はもうない。新聞は 15 歳以下の子どもの数が 44 年連続して減少と報じている。開花→バーベナ(35)、ミツバアケビ(36)、黄色カタクリ?(37)  

トドは万歳、エゾセーフ

 北海道生まれなのに 18 歳で東京に出た私は、恥ずかしながら、エゾマツとトドマツの名は知っていたが区別がつかなかった。 45 歳で U ターンしたとき、北海道自然保護協会で事務局長をされていた福地郁子さんから「トドは万歳、エゾセーフ」と区別を教わった。トドの枝は万歳のように上向き、エゾは両手を広げてセーフするように下向きだから、それで見分ける、と。そのトドが防風林に 3 本ある。屈斜路湖畔で磯貝高士・真理恵夫妻が営むペンション「ぱぴりお」からいただいた実生が 10 年で 1 mの丈まで育った。ぱぴりおでは 2000 年から 20 年続けて楽しい夏を過ごさせていただいた。ここを定宿に、地元弟子屈コタンの友人はじめ、放射線状に、厚岸、中標津、根室、釧路、網走、小清水、斜里に住む友人と再会し、また東京から友人を招いて旧交を温めた。自然が良好に保たれ湖へと続く、ぱぴりおの大きな森では、たくさんの動植物に出会った。ぱぴりおの夏のいっときは、最良の命の洗濯の機会であり場だった。片道 400 ㎞の運転はもうかなわないが、トドマツを見るにつけぱぴりおの記憶は鮮やかによみがえる。持ち帰ったドングリの実もいつの間にかミズナラに育っている。開花→ツバキ( 34 )  

2種のニリンソウ楽しむ

 昨日 は森でアリスイが「クィ、クィ、クィ…」と初鳴きした。庭と防風林はニリンソウが満開。わが家のニリンソウは 2 種類ある。一つは普通のニリンソウでかつて浦臼町の谷さんの農場からここにきた。もう一つはえりも町産。ここに家を購入したとき、当時町長だった佐々木隆人さんが記念に届けてくれたツツジの根元に潜んでいた。 2 種のニリンソウは同時には咲かない。 1 週間ほど先に咲くのはえりも産で花弁が薄くピンクがかっているのが特徴。植物図鑑によればニリンソウは変異の幅が大きいという。浦臼産は一般的な種だから純白の花弁は 6 枚だが、えりも産は 5 ~ 7 枚と不ぞろいだ。それにえりものニリンソウは葉の色も濃い。庭から防風林に増殖しているのは浦臼産のニリンソウで、えりも産はツツジの根元を離れようとしない。ツツジ類もいまが盛り。エゾムラサキツツジのほか、義兄から譲り受けた盆栽仕立ての夕張産山ツツジも咲いている。義兄は盆栽づくりの名人といわれた。実生から歳月かけて育てあげ、いまでは 30 ㌢ほどの背丈に成長し、盛り上がった鷲の爪のような太い根で岩をつかんでいる。古木さながらの風格。火山岩に植え込んである。  

憲法と分権改革(憲法記念日にちなんで旧稿3題)

  憲法と分権改革(憲法記念日にちなんで旧稿 3 題) 2025年5月3日投稿  北海道大学法学部「政治研究会会報」第 11 号  1990 年 3 月 31 日より転載 邦文憲法と英文憲法                          神原 勝(法学部教授)  日本国憲法は、マッカーサー草案をもとに GHQ と日本政府の折衝を通して確定されたが、その過程で英文と邦文の対訳がめまぐるしく行き交った。それゆえ邦文憲法の英語版は、単なる英訳としての意味をこえて、憲法の理解を手助けしてくれる特別の意味をもっているように思われる。たとえば、国民主権をうたった憲法前文には次の一節がある。  「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」  これはマッカーサー草案の次の一節を邦訳したものである。   Government is a sacred trust of the people, the authority for which is derived from the people, the powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people.  憲法制定当時、内閣法制局の責任者として GHQ と折衝の任に当たった入江俊郎氏は、「ここに『国政』とは、英語でいえば Government で、統治作用、または政治行政という意味であり、主権の直接間接のはたらきを一切包含している。すなわち、立法・司法・行政のあらゆる分野にわたり、地方自治もまたこれに包含されている。」と述べ、「国政」すなわち Government は自治体をふくめて国民国家の政治機構およびその作用の全体をさすものと理解している (入江「地方自治法管見」自治研究 1948 年 7 月号)。  私がこの入江論文に触れたのは 1960 年代の半ばであった。地方自治を学習するにつれて、憲法第 92 条に書かれている「地方自治の本旨」を「団体自治と住民自治」で説明する公法学の通説あ...

憲法記念日にちなんで

 今日は憲法記念日。長い間大学で「自治体学」を講じたが、そのなかで憲法を論じたのは毎年 2 時間ていどにすぎなかった。講義は以下のことに留意してすすめた。①「第 8 章地方自治」にふくまれる 4 か条以外の逐条解釈はしないが、この第 8 章を憲法全体のなかに位置づけてその意義を構造的に理解すること。②憲法・行政法学の通説の解説は最小限にとどめ市民自治の観点から地方自治の憲法上の論点を中心に講義すること、③その際、分権改革の実施により地方自治の内容に大きな変化が生じたことから、それが既成の通説的な憲法理論や憲法解釈にいかなる課題を突きつけているか論点を提起すること、④法学部には地方自治に部分的に関係する講義が他にもあるので、それらにふくまれる憲法論と本講義の内容を比較して論点の所在と相違を理解してほしいこと、を学生に話した。リタイア後は不勉強だが、近年は分権改革あるいは自治分権に逆行する国の動きが顕著なので、憲法記念日にちなんで、かつて使用した講義ファイルから、いまに通じると思われる小論を探して思いをめぐらせてみたい。見つかればラベル「窓明浄机」に投稿しよう。開花→キバナノコマツメ(黄 32 )、タカネキンポウゲ(白 33 )  

水芭蕉とリュウキンカ

  昨日は心地よい快晴。ウォーキングに出る。昭子にミズバショウとリュウキンカを見せたくて車イスを押してペケレット湖畔へ。往復 2 キロ。途中、開拓の記念碑あたりをヤマザクラを鑑賞しながら散策。このあたり一帯は滝本五郎が 1882 年に篠路興産社を設立して開拓の鍬を入れた篠路発祥の地。石狩川に接したこの地は開拓の初期しばしば水害に悩まされた。そのため水に強い藍の栽培が盛んになり、ここを起点に石狩川の上流にひろがっていった。中流域にあった私の生地の村も藍栽培の歴史がある。藍発祥の記念碑に並んで農民歌人の宮西頼母が「チモシーの禾穂積み終へし土手のうへ石狩川は波立て見ゆ」と詠んだ歌碑が並んでいる。チモシーは牧草、刈り取って円錐に積んだのが禾穂 (にほ) 。ペケレット湖は現在は茨戸川だが、洪水を防ぐため直線化するまでは石狩川の本流だった。頼母が見たのは本流のころの石狩川。大雪に発する全長 360 ㌔の石狩川は現在は 260 ㎞。大河をこれほど短縮した例は世界的に珍しいと聞いたことがある。いつものことだが、人々の労苦の歴史を思わせる道々だった。庭の開花→梅( 29 )、シバザクラ( 30 )、防風林のヤマサクラ( 31 )  

童話村と森の子ども村

 5 月。紫の芝桜が開花。この芝桜は 30 年近く前に昭子と滝上町を訪ねたときにいただいた。町の美しさに魅せられて北大生を引率したこともある。町長だった山口恒雄さんは、「かつて四国から贈られた 1 箱の花を大切に育ててここまで増した」と、小高い丘一面に咲き誇る芝桜の絨毯を見渡しながら話してくれた。そのころの滝上町は「童話村」づくりに力を注いでいた。緑の渓谷を流れる渚滑川に架かった数本の橋には色調やデザインに工夫が施され、学校、保育所、スポーツ施設、道路標識、街路灯などもメルヘンチックなデザインで統一されていた。「香りの里フレグランスハウス」や「ホテル渓谷」も目を見張った。かつては主産業だった林業の衰退から町を再生させる懸命の模索のなかで行き着いた活路の一つが童話村づくりだった。その模様は全国紙にも紹介され優秀賞を受賞した。徳村影さんも忘れられない。町民の徳村さんは、幼いころから森に親しんで生命に触れ感動する心を次世代に伝えたいと、小学生を中心に「森の子ども村」を開設する抱負を語っていた。あれから 30 年もの時が流れたが、庭の芝桜を見るにつけ滝上町の2つの村づくりの物語が脳裏をよぎる。