1999年5月25日の朝

 26年前の今朝、昭子が脳内出血を発症した。大手術をへて生還した。医師からは家庭復帰は無理、失語症からの回復も絶望と告げられた。手術を終えて意識がまだ朦朧とした状態のとき、私は「もし神様が手、足、言葉のうち1つだけ完全に元に戻してくれるといったらどれを選ぶか」と問うた。彼女は「言葉」と答えた。右上下肢はいまも不全だが、失語症は医師の予想に反して回復した。思い返せばこれが何よりも嬉しい。手足の不自由は他力でも補えるが「意思」は自力で発するしかない。発症直後私の友人の新聞記者・牧太郎君が同病の自らの体験記を送ってくれた。「障害は個性だと思う。この病気をして見えないものが見えてきた」と綴ってあった。4か月後、彼女は退院し私たちの新生活がはじまった。見えない今後を恐れるのではなく、何が待ち受けているか好奇心をもって向き合おう、障害を健全な日常を妨げる「異常」としてではなく、私たちの個性ある生活の大事な要素として「日常」化しようと覚悟を決めた。この26年間をふり返って、イマがあるのは、本人の努力と大勢の方々の応援はもちろんだが、覚悟を決めて日常を貫いた気持ちの持ち方が大きかったと思う。

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私は大切なことを忘れないため、また頭を整理して冷静に向き合うため、昭子が入院中は毎日、退院後1年間も日記をつけた。A4 判で200頁になる。それから10年たって、「昔の出来事」として読めるに十分な時が流れたと判断して昭子に渡した。彼女は驚きの表情を浮かべて、自分の記憶から脱落していた期間の自分を補ってくれた。そのなかにはカツラの木のことも書いた。車イスで病院近くを散歩したとき、昭子は遠くのカツラの木を指差し、初めて茫洋とした世界を識別し体で意思を表示した。その直後に言葉が戻りはじめた。あれから26年間、一昨年に私と昭子は同時にガンを発症し、同病院、同主治医という稀有な体験をしたが、これをふくめて私たちは悲壮感に苛まれたことはあまりない。昭子は毎日読書を欠かさないし、左手でメールのやりとりもする。頼まれてエッセーなども時々書いている。楽しい思い出もたくさんある。車椅子でフィンランドのヘルシンキに半月滞在した。バルト海を渡ってエストニアの古都ターレンの街も散策。夏の1週間の道東旅行は20年続け、秋のニセコの紅葉、友人のいる蘭越や下川の温泉もしばしば楽しんだ。友人との交流も続く。開花→バイモユリ(76)、シロミニナグサ(77)、ジュウニヒトエ(78

 

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