投稿

6月, 2025の投稿を表示しています

畑と庭の今時の事情

 昨日から普段の生活に戻った。早朝、久しぶりに時間をかけて畑と庭を見まわった。なかなかまとまった雨が降らないがイモの花が咲きはじまったので土寄せをした。インゲン豆、スイカ、トマト、トウモロコシ、枝豆、カボチャなどはいまのところ順調に育っている。ただ誤算だったことは白花豆の発芽が悪いこと,ブルーベリーが枯れたことであった。期待していた白花豆の煮豆は今年はあきらめ、ブルーベリーは余市の甥が収穫したものを分けてもらおう。これまで野菜類はすべて畑で栽培してきたが、今年からは観賞用と称して、スイカ一株とトマト数本を庭で育てている。トマトは脇芽を水に浸しておけば数日で発根するのでそれを土に移植すればよい。スイカは少し大きめのプランターであれば実がつく。もう花が咲くまでに生育している。車椅子の昭子はなかなか畑や庭に出られないので、窓越しにこれらの成長を日々楽しみながら季節感を味わうことができるだろう。いまの庭は赤いバラとヤナギラン、ヤマツツジ、ラベンダー、テッセンが奇麗だ。まもなくミソハギとエゾカンゾウがこれに続く。ヤナギラン、ミソハギ、カンゾウが咲きそろうと、北海道らしい夏の野の花畑感が一気に高まる。 

パブコメは市民参加にあらず

 数日ブログを休みPCのメールも開かなかった。そのメールに「パブリックコメントは市民参加か?」という問いが舞い込んでいた。私はかねてより、パブコメは情報公開の一種であって市民参加そのものではないと主張している。パブコメは主として行政が政策を立案する過程で原案などを開示して通信で市民の意見を求める方法として多用される。そして行政はこれを「市民参加」と称する。けれども、市民参加は、市民ができるだけ①参加の現場に出席して、②行政と市民が討論し、➂市民相互間でも意見を交わすことによって、④当初抱いた自らの意思の確認や修正・変更をふくめて、⑤より確かな意思を形成し行政に反映させる場である。他者の意見に触れ議論を行なえば市民の意思は変化する。私自身いつもそれを経験している。行政はそうした過程を通して確信性を増した市民意思を政策に反映すべきである。このような市民参加の本来の意義に照らせば、市民参加に不可欠な基礎的な情報の一つとして、市民の一次的な裸の意見を情報化したパブコメ情報を活用することには意義がある。パブコメの本質は市民情報を作成して公開することにある。これをもって市民参加に替えることはできない。この数日の開花→フーロソウ(白 107 、ピンク 108 )、テッセン( 109 )、ドクダミ( 110 )、トラノオ( 111 )、ホタルブクロ(白 112 )、クガイソウ( 114 )、ソバナ( 115 )、ダルマギク( 116 )、ナツツバキ( 117 )、キョウカノコ( 118 )

映画「沖縄決戦」を観て

 今朝は快晴だが一昨日から昨日の午前中は恵みの雨で終日畑には出られなかった。そのため午後は時間がたっぷりあって NHK ・ BS で映画「激動の昭和史沖縄決戦」( 1971 年、岡本喜八監督)を観た。小林桂樹、仲代達矢、丹波哲郎、東野栄次郎ら往年の俳優たち。何度も観た映画だがいつも心を新たにする。米軍をして「ありったけの地獄を集めた戦場」といわしめた、太平洋戦争唯一の国内戦。日本軍は連合軍の本土攻撃を沖縄で食い止めようと大量の兵力を送り込んだ。米軍上陸の 3 月 26 日から牛島司令官らの自決で第 32 軍の組織的戦闘が 6 月 23 日に終結するまで、 10 代前半の子どもをふくむ武器をもたない県民が軍に協力させられ、軍民混在の悲惨な地上戦が続いた。また、自国兵による住民からの食糧強奪、スパイ嫌疑による虐殺、さらには追い込まれた住民の集団自決があって、延べ 20 万人以上の死者を出した (軍人・軍属 9 万 4 千、住民 9 万 4 千、米軍 1 万 2 千) 。「(沖縄に)寸尺の土地の存するかぎり戦い続ける」とした司令官の無謀な精神主義が沖縄戦の悲惨さに拍車をかけた。私は沖縄の「 6 月 23 日」と日本の「 8 月 15 日」を同じ重さで受けとめるよう心がけている。

今朝、神田日勝の夢をみる

 どういうわけか十勝の鹿追町にある神田日勝記念館の夢をみた。とくに思い当たるフシはない。私が初めて日勝の絵を見たのは記念館を訪ねた 1993 年の夏。描かれた馬や人物の迫力にふれて、日勝の強烈なリアリズムと剛毅な気性を感じさせられた。日勝の絵はどれも見た目に美しいものはなく、逆に汚らしい馬や人物を描いている。汚らしくしか生きられない馬と人というこの時代の農生活の核心部分をあくなきリアリズムで表現したところに日勝の絵の本質がある。迫力もそこから生まれる。それはまた私に親近感さえもたらしてくれる。彼は私より6つ歳上。同時代に農村で青春を暮らした点でも共通の根がある。防寒のため壁一面に新聞を貼った「室内風景」はわが家も。一つ屋根の母屋と厩舎だから馬は家族も同然。まさしく汚さに満ちた日常という共通体験から生まれる親近感である。日勝の死後、ミサ子夫人が著した『私の神田日勝』(北海道新聞社)を読んでその思いをいっそう強くした。十勝を舞台に日勝との馴れ初め、生活と農と絵、病と死をやさしく綴った素晴らしい本。汚さを包摂した生と生活の美しさを彷彿させる。私の日勝像は、日勝の絵から感じとった日勝像と夫人の本から読みとった日勝像からなる。開花→ユリ(その1、106)

夏至と姫百合からの連想

 四季の織りなす自然の変化のなかでも春分の日と秋分の日、冬至と夏至は、大くくりな季節区分だが、代り映えなく流れていく日常にメリハリを与えてくれる。その夏至の到来。今年も半分終わったという時の移ろい速さを実感するとともに、作物の生育が本格化する畑に向きあう心構えも求められる。けれどもそれとは別にもうひとつ私が心することがある。夏至の花は「姫百合」である。古来日本人に親しまれてきた野の花で、「夏の夜の繫みに咲ける姫百合の」と万葉集にも登場する。どうやら西日本の花らしく、東京や北海道では見かけない。さて、それはともかく、私は夏至→姫百合→ひめゆりの塔と連想してしまう。ひめゆりの塔はかの有名な沖縄の女子学徒隊の追悼碑である。ところが、この「ひめゆり」は姫百合の花とは関係はないらしい。かつてモノの本で知ったのだが、学徒隊の生徒が属する 2 校の学校だよりのタイトルが「乙姫」と「白百合」だったので、「姫」と「百合」を合成して「ひめゆり」にしたと。「姫百合」と「ひめゆり」が無関係でもかまわない。けれども、夏至と姫百合から連想して「ひめゆりの塔」と「 6 月の沖縄」に想い馳せる心象は大切にしたい。開花→ラベンダー( 105 )

手づくり図書館の想い出

 17 日に書いた本のことで、友人の赤坂京子さんが、早速『大どろぼうホッツェンプロッツ』をお孫さんにプレゼントするとメールをくれた。役に立てて嬉しい。別の方からは私の子どものころの本事情を尋ねられた。子どものころ村にも学校にも図書館はなく、家庭でも年に数回札幌の兄が土産に買ってくれる以外に新しい本に接する機会はなかった。小学 4 年のとき土門忠幸君が夕張の炭鉱から転校してきた。彼は無類の本好き。 2 人で相談した。教室に学級図書館をつくって、家庭で不要になった本を集めてみんなで読もうと。担任の渡辺通先生も級友たちも大いに賛成。早速物置小屋から角材をもらって小さな書架をつくった。ところが集まった本は農協が農家に配っていた『家の光』、戦時中の漫画「のらくろ」の物語、それに若い女性向けの『平凡』などで、子ども向きではない。見かねたのだろう渡辺先生は自費で新しい本を何冊も買って並べてくれた。先生が担任の 2 年間が終わるころには他の先生や父兄の協力もあって本は増えた。私は宝物にしていた山川惣治の『少年王者』を全巻並べた。人気があってすぐにボロボロに。宮沢賢治を初めて読んだのもこの書架だった。

忘れ名草がまた増えた

 3 月初めに庭にスノーボールが咲いてから、もう 100 種類以上が開花した。ちょうど 100 日たっているから、毎日新しい花が咲いている計算になる。いまは 3 種類のハマナスと 4 種類のバラがとても奇麗だ。通りに面したセミ・パブリック(敷地内だが地区計画により全戸が 1m セットバックして植生を施す半公共スペース)のハマナスとバラは通行者の目を楽しませているようだ。ところでこのブログに開花の順番を欠かさず記してきたが、その名はこのところ昭子の記憶に頼ることが多い。以前このブログに「わが庭に忘れ 名 草がまた増える」と書いて、思い出せない花は「忘れ 名 草」にしてしまうと高をくくったのだが、それが増えるとさすがに気になる。聞いてもメモしなければブログに書けない。かつて植物に詳しい友人の福地郁子さんは「教えても 3 歩あるけば忘れる」のが花の名だといっていたから平静を装いたいところだが、元々覚えていた名を忘れるのだから内心は複雑。先輩の故・仲井冨さんが「人をふくめて好きなものから名を忘れる」と悩んでいたことも思い出す。まもなくヤマアジサイ、エゾカンゾウ、ヤナギランが咲く。これらは「好きな」花だがまだ忘れてはいない。  

紙智子さんと内山勝人さん

 共産党の参議院議員・紙智子さんが 24 年の議員活動を終えて勇退される。最後の討論にたたれた紙さんは、福島の原発事故、父親の戦争体験、そして議員生活でとくに力を入れた農林水産業などに思いを馳せて、だれもが感動する熱い演説をされた。本会議後の任期満了議員の送別会では、自民議員が「討論を聞いて涙が出た」「紙さんは国会の宝だ」と述べたそうだが、政敵ではあっても人間・紙さんへの実直な思いは隠せなかったのだろう。私は紙さんの夫の内山勝人さんと「山菜友だち」だった。その内山さんが 2012 年に亡くなられたとき、紙さんは「人間と自然と北海道をこよなく愛し、何ごとも一生懸命な人だった」と追悼された。私は紙さんの生き方も同じだと思う。それに調査能力、政策能力は 2 人とも抜群で、表現能力にも優れている。私は内山さんの「小林多喜二の母『セキ』さんの想い出」という珠玉のエッセーはいまも大事に持っている。紙さんは討論で、えりも町の漁師から教わったという「志高清遠」 (清い心で遠大な理想をもって生きよ) を紹介して締めくくられた。私はこの心打つ討論全文を入手して内山さんのエッセーとともに時々読み返そうと思う。開花→ワレモコウ( 103 )、アンジェラ(薔薇 104 )

期せず長明、兼好、唯円

 久しく会っていない同級生から電話があって、本好きのひ孫の誕生日に本を送りたいがどんな本がよいかという相談であった。本好きなら直接本人の希望を聞いてみるのがいいと進言したが、そうはせずに驚かしてみたいという。そこでひ孫の関心や好みなどを聞いてプロイスラ―作の『大どろぼうホッツェンプロッツ』を薦めた。名作だからどこかの出版社からいまでも出ているだろう。かつては偕成社が三部作として出版していた。だから喜べば『ふたたびあらわる』、『三たびあらわる』と続けて贈れば爺さん株も三たびあがると。それにしても祖父の本好きが子ども経由で孫・ひ孫にも伝播している構図が何とも頼もしくおもしろい。さて送り主の当のお爺さんは、銀行員をリタイアしてこのかた長年日本の古典文学にはまってきたそうだ。現在は鴨長明の「方丈記」と吉田兼好の「徒然草」の再読、そして唯円の『歎異抄』に深入りしているという。唯円は当然として 3 人に通底しているのは親鸞 (浄土真宗) 。私も近年この 3 冊を読み直している。久しく会っていない同級生が期せずして同じ本に向きあっているとは。歳のせいであろうが、この構図もまたおもしろい。開花→リナリア( 100 )、リンドウザキカンパネラ( 101 )、リシマキア(102)

種内で殺し合う愚かな人間

 ガザ地区におけるイスラエルのジェノサイドが続くなか、イランの核施設空爆という新たな衝撃が走った。ロシアの侵略戦争もなお終息の兆しが見えない。現代の世界は一国だけでは生きられない。食糧にしてもエネルギーにしても相互の依存関係が深まり、ヒト・モノ・カネが地球大に行き交う。はたまた気候変動などの地球環境の危機対応をふくめて、どんな国とヒトも互いを必要とする構造になっている。こうして互恵関係と相互尊重が深まれば世界は多様に生きる存在を互いに認めあって平和の意義を再認識し、無益な戦争や殺戮を回避する道を進むに違いない。そう信じその進展を希求してきたが、このような命題はもはや成り立たないのか。アメリカのトランプの一国主義、関税戦争がこれに拍車をかける。これが一過性のトランプ型政治個性なのかアメリカの深部に根ざした構造政策なのか判別し難いが、ロシア、アメリカの自国主義は国連の戦争抑制機能を麻痺に追い込んでいる。こうした深刻化する世界の非人道化、不安定化を案じながら庭に目をやれば、小鳥たちはせっせとヒナに餌を運んで懸命に命を育んでいる。同じ種でありながら殺し合うのは人間だけ。開花→ツルサラバンド(薔薇 98 )、イングリッシュローズ(薔薇 99 )

男女平等、日本118位のまま

 世界経済フォーラム( WEF )は 6 月 11 日、世界各国の男女平等度を示す「ジェンダーギャップ指数」の 2025 年版を発表した。日本の総合ランキングは 148 か国中で 118 位。政治分野で改善が遅れ、今回も主要 7 カ国中( G7 )で最下位。ランキングは政治、経済、教育、健康の 4 分野での平等度を指数化。日本は総合指数でみると 66.6 %と前年( 66.3 %)からわずかに改善した。ただ政治分野に限ると、女性閣僚の割合が下がったことで 125 位で過去最高の 113 位から大きく後退した。総合首位は 16 年連続でアイスランド。フィンランドとノルウェーが続き、上位 3 カ国は昨年と同じ。初回調査の 2006 年以降、北欧諸国がトップ 10 に多く入る傾向は変わっていない。ランキング(カッコ内は順位)→アイスランド( 1 )、フィンランド( 2 )、ノルウェー( 3 )、英国( 4 )、ニュージーランド( 5 )、韓国( 101 )、中国( 103 )、日本( 118 )。 WEF は世界全体で男女格差を解消するには 123 年かかるとした上で、サウジアラビアやメキシコなどが男女平等の達成を優先的な政治課題と位置づけることで、経済が成長していると紹介。(しんぶん赤旗 6 月 13 日付けから抜粋・要約) 開花順→ドックローズ( 96 )、アヤメ(普通種 97 )

食卓に浮かべる笑顔と風景

 私が家の台所の支配権?を得て 26 年。妻の昭子が病に倒れて 3 度の食事づくりが私の仕事になったため。嘆きはやめてしっかり向き合おうと 3 つのことを心に決めた。①料理は手づくり、②食材の安全にこだわる。これを基本に③食卓をキャンパスに見立てて、そこに北海道の地域の風景と生産者の笑顔を浮かぶ食卓にしよう。この基本は現在も続けている。とはいえ私のオリジナリティというよりは、昭子が敷いていたレールの上を走っているだけなのかもしれない。安心安全な食材を配達してくれる「生活クラブ生協」と、養鶏を営む甥が運んでくれる「なんでも百姓クラブ」の面々の食材が基本だから、普段は買い物に出ない。人はそんな<食>はお金と時間がかかるという。私は屁理屈をいって言葉を返す。何にお金をかけるかは優先順位の問題だから他を節約すればよい。それに台所にいながら毎日道内旅行を楽しんでいると思えば、多少割高になっても許容の範囲内だと。年金生活の身で時間は十分ある。わが家には冷凍食品は自然解凍、レトルトも使わないから電子レンジもない。「引かれ者の小唄」といわれようとも、最高の食生活だと自賛している。だが人には強要しない。開花→ヒメイチゲ( 92 )、タッタナデシコ( 93 )、ムシトリナデシコ( 94 )、アトランティアスノースター( 95 )

遠くにありて行けぬもの

 早朝、遠くから JR 札沼線(学園都市線)の汽笛が聞こえてきた。 5 年前に札幌・医療大学間を残して以北は廃線になった。私はその中間地点の村で生まれ育った。 20 歳のころだった。 1912 年(大正元年)に村の人々が敷設を求める運動をはじめ、 1935 年(昭和 10 年)に全線開通するまでの経緯を 1949 年発行の『浦臼村史』で知った。石狩川を渡船して左岸に運ぶ農作物出荷の難渋を解消したい村人の強い思いが実ったと記してあった。私の記憶に一番古く残る札沼線は 3 歳のとき。戦争で撤収されたレールを戦後再敷設する工事の槌音を姉の背で聞いた。物心ついてから離村するまで「鉄道なくば生活なし」といえるほど鉄道は生活と密接。記憶に残る村での生活の多くのことが汽車や駅のたたずまいと二重写しになる。家族の個々人が腕時計をもてない時代、汽車の通過や汽笛が時計代わりをしてくれた。過日、いまだ放置されたままのレールをまたぐ機会があった。赤さびて左右から迫ってきた木々に覆われている。廃線までは「故郷は遠くにありて想うもの」といえたが、廃線後は「故郷は遠くにありて行けぬもの」に変化した。心のインフラまた消えた。ただの感傷か? 開花→ヒメゼンテイカ( 90 )、カクテル(薔薇 91 )

昨日が最後のヤマベ釣り

 6 年ほど前からすっかりヤマベ釣りにハマってきた。コトハジメは近所の友人・高柳雅也さんの誘いと手ほどき。釣り好きの私は、あいの里に越してからは、近くの石狩川周辺にしばしば鯉釣りに出かけた。だがヤマベ釣りの楽しさはそれをはるかにしのぐ。仕掛けは簡単、釣り方も難しくない。いつも行く共和町の森林地帯を流れる渓流は、深いよどみや急流のある大きな川ではない。体力もさして消耗しない。だから年寄り向きスポーツと勝手に決め込んできた。年に2, 3 度。ベテランの高柳さんは胴付き長靴をはいて本格的に釣るが、私はノンベンダラリでそこまではしない。そんな私でも労せずして毎回 40 匹前後は釣れる。ヤマベとイワナは大型なら塩焼きか甘露煮、中型はマリネ、小型ならフライが美味しい。夜明け前に現地に到達し、川面が見えはじめると釣り開始、午前中で終了。音色豊かな小鳥のさえずりが降り注ぐ清流に分け入って、新緑の森の酸素を胸一杯に呼吸。これだけで十分。釣果に関係なく至福の時が流れる。このヤマベ釣り、昨日を最後と決めた。自分ではまだ余力はあると思うが、家族の心配は察するにあまりある。想い出一杯。高柳さんに感謝。開花→バイカウツギ( 89 )

雨降って気持ち固まる

 畑に恵みの雨がようやく降った。東京にいたころ通勤時の雨は「嫌な雨」だった。けれども区の市民農園を借りて楽しむようになってから、雨は概して「恵みの雨」に変わり、通勤時の苦痛感は和らいだ。同じ雨でも小さな菜園で心の持ち方が変わる自分の身勝手さがなんとも滑稽だった。雨については他にも思い出がある。東京でのある夏のできごと。仕事で外出中に大雨に見舞われ、次の予定地への移動が困難になった。その旨職場に電話すると、同僚の女性が「近くまで行くついでに傘を届けてあげる」と。好意に甘えて予定の仕事は無事終了、職場に戻って感謝とお礼の気持ちを伝えた。ところが数日後、フェミニストと称する数人の男性が私を呼び出し、「傘を届けさせるとは女性蔑視もはなはだしい。オマエは自分を何様と思っているのか」と激しく指弾。思いも寄らぬ展開に面食らったが、私の電話が彼女の心をかくも傷つけたことを知ったので一切弁解せずに非をわびた。この件から現在まで数十年、外出時には天候とは無関係に傘を持ち続けてきた。だから雨に困ったことは一度もない。時の流れとともに彼女に対する心外な気持ちもいつしか感謝の念に変わっていった。開花→ハマナス(えりも赤 85 、八重 86 )、三寸アヤメ(紫 87 、白 88 )

わが書架の「室崎コーナー」

 6 月はハマナスの開花とともにはじまる。わが庭には 3 種類のハマナス(赤いハマナス、白いハマナス、八重の赤いハマナス)があり、そのうちとくに待ち望んでいた白いハマナスが今朝咲いた。白も八重も札幌では見かけない。きっと珍しい種類なのだろう。最初に見たのは厚岸町で、私と昭子が感動したあまり、同町の室崎正之・英子ご夫妻が届けてくれた。もう 30 年も前のこと。室崎さんは厚岸町のベテランの町議会議員。ゴルフ場建設をめぐる環境問題で昭子が最初にお会いし、その後は私も加わって重ねた親交は現在も続く。私にとって室崎さんは自治体議員のお手本のような存在だ。とくに①町政が取り組むべき課題を広く的確に捉える「 課題 認識」、政策のプライオリティや解決方法の選択に欠かせない「価値判断」、③自己の主張、政策、視察などを論理的に説明する「表現能力」に秀でておられ、お会いした時はいつも町政や議会のあり方などについて建設的な話に花が咲き楽しい。とくに③。私は書架の一角に「室崎コーナー」を設けて、これまで室崎さんが議員活動の一環としてしたためられた貴重な文書類をたくさん保存して活用させていただいている。 *       * 上述のことに関係するが、室崎さんの④「調査能力」の高さにいつも感心している。視察のときは、目的にふさわしい対象地域や自治体を選ぶために、専門家からの情報提供をふくめて周到に思いをめぐらせ、決定後は事案に即して現地から取得した予備的情報を分析。そうして論点整理したうえで現地におもむくから視察の効果はてきめんである。視察後は詳細なレポートを自身の手で作成し公開する。この室崎さんの調査能力の高さは議員活動一般におけるレベルの高さにも通底していると思う。長への議会質問にしても、職員が問題解決の手法を理解しなければコトは前に進まないわけだから、そのことを念頭において「実現」の方法を重視して質問をする。私がいまは全国化した議会基本条例の制定を提唱したのは 2001 年。そのときある確信があった。室崎さんのような議員が増えていけば議会改革は必ず前進すると展望できたのだ。そのころ北海道を湧かせていた地方自治土曜講座。大勢の専門家講師の講義は 100 種のブックレットになっている。議員としては唯一の室崎さんの講義録『小さな町の議員と自治体』( 1999 年...

川村喜芳さんを偲ぶ会・献杯の辞

  2025 年 6 月1日 神原 勝 (本稿は、「川村さんを偲ぶ会」における献杯のスピーチを文字化したものです。本ブログのラベル「移ろう季節」にも当日の模様について関連記事があります。) 川村喜芳さんを偲ぶ会・献杯の辞 私たちが敬愛してやまない川村喜芳さんが 1 月 6 日に亡くなられて早や 5 ヵ月が過ぎ去りました。痛恨の想いはまだとても癒されませんが、本日、川村さんゆかりの者が参集して、このような偲ぶ会を開催することができましたことを心に深く感じ入っております。  森啓さんとご川村さんの長男・新介さんから心に染み入るメッセージをいただき、これらを掲載した「しおり」をみなさんの手元に配布させていただきましたが、これをふくめて、本日に至る準備作業は、発起人の小山裕さん、今川かおるさん、嶋田浩彦さんが担ってくださいました。  私もその一人に加えていただきましたが、本日の参加者のなかで最長老であることから献杯の音頭とりの役割がまわってきました。僭越ながらお引き受けいたしましたので、発声に先立ちまして一言スピーチさせていただきます。  私が川村さんに初めてお会いしたのは 1989 年、川村さんが道職員研修所長になられ、また私が北大に赴任した 1 年後のことでした。私は 18 歳から北海道を離れていますので、北海道の地域や自治の事情を理解しない新参の学者が、あれこれもっともらしく発言するのはあるべき姿ではないと自分を戒めて、 1 年間は大学の外での発言や行動は差し控えていました。  その 1 年が明けて最初にお引き受けしたのが川村さんが所長を務めておられ道職員研修所の講義でした。「戦後自治の展開」を私なりに整理して解説する内容でした。講義が終われば普通はそこで帰宅するのですが、所長室にお招きいただき、初めてお会いしたのです。  東京におりましたころ、東京都、神奈川県、埼玉県などの職員研修にも行きましたがこのようなことはありませんでした。しかももっと驚いたことは、川村さんは所長として、職務上の儀礼として私を所長室に呼んだのではなかったということです。 所長室に入ると互いの挨拶もそこそこに、講義の内容が話題になりました。私の講義はプラス・マイナスの両面から戦後の自治制度を評価するものでしたが、その一部始終を自室で聴いてくださった川村...

川村ワールドに集う人々

 1月に旅立たれた私たちの先輩畏友・川村喜芳さんを偲ぶ会が昨日札幌で開催された。川村さんの人物像と業績についてはこのブログの「明窓浄机」にすでに投稿済みなのでここでは記さないが、川村さんは 1990 年代から 2000 年代にかけての地方分権改革期、北海道における地方自治の土壌を豊かにするために「闘った」かけがえのない闘将である。地方分権は「与えられるものではなく市民が、自治体が勝ちとるもの」といわれた。新しい自治の制度を創る精神がそのように健全でなければ、その制度を活かす精神もまた健全には育たないからである。その意味で、道や市町村や市民の過ごし方、向き合い方が試されたのである。これは一種の「闘い」であった。その闘いを「川村さん」と川村さんに共感して「川村ワールド」に結集した人々が担ったのである。偲ぶ会には、現・元の、町村会職員、市町村職員、道職員、町長、道議、国会議員、学者・研究者など、「川村ワールド」に加わってともに闘った人々が大勢参加し全員がスピーチした。「川村学校同窓会」と銘打って今後も集いを続ける提案もなされた。最長老ゆえに私に「献杯」の音頭とりの役目がまわってきた。その辞を別稿で投稿したい。 。