今朝、神田日勝の夢をみる
どういうわけか十勝の鹿追町にある神田日勝記念館の夢をみた。とくに思い当たるフシはない。私が初めて日勝の絵を見たのは記念館を訪ねた1993年の夏。描かれた馬や人物の迫力にふれて、日勝の強烈なリアリズムと剛毅な気性を感じさせられた。日勝の絵はどれも見た目に美しいものはなく、逆に汚らしい馬や人物を描いている。汚らしくしか生きられない馬と人というこの時代の農生活の核心部分をあくなきリアリズムで表現したところに日勝の絵の本質がある。迫力もそこから生まれる。それはまた私に親近感さえもたらしてくれる。彼は私より6つ歳上。同時代に農村で青春を暮らした点でも共通の根がある。防寒のため壁一面に新聞を貼った「室内風景」はわが家も。一つ屋根の母屋と厩舎だから馬は家族も同然。まさしく汚さに満ちた日常という共通体験から生まれる親近感である。日勝の死後、ミサ子夫人が著した『私の神田日勝』(北海道新聞社)を読んでその思いをいっそう強くした。十勝を舞台に日勝との馴れ初め、生活と農と絵、病と死をやさしく綴った素晴らしい本。汚さを包摂した生と生活の美しさを彷彿させる。私の日勝像は、日勝の絵から感じとった日勝像と夫人の本から読みとった日勝像からなる。開花→ユリ(その1、106)
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