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庭も畑も演者が去って

 9 月も今日が最後。秋到来。津別町から帰る日の朝、郊外にある宿の周辺を散策した。紅葉がところどころではじまっている。葉を染めはじめた桜の木の下で遠くの丘の中腹に朝日を受けてうっすらたなびく雲を見やりながら思わず口ずさんだ→津別町は木の町よ山肌を十色に染めて雪を待つ。道東の紅葉はまもなく本格化する。わが拓北の森でもヤマブドウとノブドウが赤く色づきはじめ日毎に存在感を増している。あの猛暑のなかでも生気を失わなかった庭舞台の演者たちも去って、いままだ舞い続けているハギと入れ替わって幕引きを演じようと各種のキクが登場。昨日はシュウメイギク、ノギク、ネバリノギクに次いでシンガリのキクが開花。寂しくなる庭だが、一方では小鳥たちが少しずつ戻ってきてバードテーブルが賑やかになる。初夏のころ羽を震わせピイピイと黄色いくちばしで親に餌をせがんでいたカラ類の子どもたちはいまはもう立派な大人に姿を変えている。明日からは 10 月。今年も畑の最後の演者をダイコンに託して、少しずつ後片づけをはじめようと思う。開花→キク( 166 )

実現するか津別町の快挙

  津別町で秋の清涼な空気を吸ってきた。町はいま「まちづくり基本条例」(自治基本条例)の制定に向けて議論を重ねている。自治基本条例は自治体の憲法ともいわれ、まちづくりと自治体運営の基本を明記した条例だ。市民自治の自治体理論の大家であった政治学者の松下圭一は、地域から地球規模まで公共課題を担う政府が、自治体、国、国際機構に 3 分化している現実をみすえて、国際機構の国連には国連憲章、国には憲法という基本法があるように、自治体政府にも自治基本条例が必要だと 1994 年に提唱した。条例の内容は、 1970 年以降の自治体改革の成果として全国に普及した、市民自治の理念および公開と参加を基調とする諸制度で、これに各自の個性が加わる。ところが松下と私は大事な問題について妥協した。自治体の「憲法」なら住民投票で決めるのが正道だが、当面は無理だろうと将来の課題として先送りしたのだ。 2001 年の初発のニセコ町から 25 年、 500 近い自治体が制定したが住民投票はいまだ実現していない。津別町は佐藤多一町長の熱い思い入れがあって、その実施を視野に入れている。実現すれば日本の地方自治の画期となる。私は快挙を見届けたい。

斉藤副議長と楽しい一時

 昨日の午後は栗山町議会の斉藤義崇副議長が訪ねてこられて楽しい一時を過ごした。議員報酬改定の新方式など、変わらぬ積極的な改革の継続は嬉しいかぎりであった。斉藤副議長は他にも、現段階では個人的着想としながら、議会基本条例で町長に課した 7 項目の説明責任(政策の発生源、検討した他の代替案、他自治体の類似政策の検討、総合計画上の位置づけ、関係法令及び条例等、政策実施の財源措置、将来の政策コスト等の予測)を、町長の課題に止めおかず、議員が自らにも課して質問力、政策力を高める抱負を披瀝してくれた。私は 2006 年 5 月 18 日、栗山町議会が初めての議会基本条例を制定したとき、ここから日本の自治体議会改革がはじまる、今年は議会改革元年になると、田植え真最中の田んぼ道を急いだときの高揚感を彷彿しながら話に聞き入った。このような議員力の向上は思いつきや一過性では取り組めない。改革を継続して議会の土台をしっかり構築してはじめて可能になる。副議長と私の認識は一致した。栗山町議会は依然として日本の議会改革の精神的・実践的支柱であり続けている。斉藤氏は議員になる前に議会モニターも経験している。

今日は栗づくしの善き日

 今日の夕食は午後に栗山町議会の副議長が来訪されたのにちなんで栗ご飯によりをかけた。けれども生栗の皮むきにはいつも難渋する。 3 合のコメには 30 ~ 40 個のしば栗を使うが、鬼皮は簡単にむけるものの渋皮は時間と手間がかかる。きれいにむこうとすれば正味がどんどん失われてしまう。工具は各種出回っているものの決定打にはほど遠い。それでも、簡単に皮むきができる工具が発明されればノベール賞ものなどとつぶやきながら、食い意地が勝ってせっせと皮むきに精を出してきた。そこで今年は考えた。ゆで栗で食べるときは 30 分ほど煮るが、これを 12 、 3 分にしてやや硬めに煮る。それを包丁で 2 つに割って、先の尖ったスプーンでえぐり出すのである。形はやや崩れるが、生栗をむいたときでも 4 つ割りにして炊き込むのだからさして変わりはない。鬼皮・渋皮の処理に要する時間は生栗のときの 4 分の 1 で済むし、手作業も比較にならないほど楽である。できあがった栗ご飯は全体的にふっくらして生栗の炊き込みよりむしろいいといえるほどだ。こんなこと何故いままで気づかなかったのか。今日は栗山町議会と栗ご飯で栗づくしの善き日であった。

米という字は八十八と書く

 暖房が欲しい季節になり農作業も終わりに近づいた。まだ食べられそうなインゲン豆を探しながら、祖母の言葉を思い出す。幼きころ祖母は「コメ(米)という字は八十八」が口癖だった。八十八もの多くの手間をかけて育てたコメだから一粒たりとも無駄にはするなという教えだ。文盲の祖母がいうのだから昔の農民が長く受けついできた教訓だったのだろう。父母もそれを受けついで私たち子どもをシツケた。ご飯茶碗に一粒のコメを食べ残しても厳しく戒められた。私が現在やっている家庭菜園は小規模だから機械や化学肥料には一切頼らない。だから何をつくるにもけっこうな体力と手作業を要する。作物にかぎったことではないが、手間をかければそれだけ収穫物が愛しくなって無駄にはできなくなる。ところが 2 年前に胃を全摘手術してからは時々食卓の料理を食べ残すようになった。家族は「無理をしないで」といって気遣ってくれるが、私の心理的な抵抗感は半端でない。そのたびにもう 70 年以上も前の祖母の「コメは八十八」を思い出すのである。いい対処法はなかなか見つからない。さしあたっては丹念に畑に戻して堆肥にすることでお茶を濁している。

上田文雄前札幌市長に感謝

 上田文雄前札幌市長が逝去された。札幌市ひいては北海道の地方自治に大きな功績を遺された名市長だった。多くの政令指定都市は 1970 年代以降、市民活動の活性化と呼応しながら市政改革を進め、それが情報公開と市民参加をはじめとする今日の地方自治の基調となっている。札幌市はその流れの外にあって、戦後ずっと職員だった助役が市長になる官僚主導の市政が続いたため改革は進まなかった。けれども上田市長が初の民間市長として登場した 2003 年以降は、「市民自治」が市政の日常用語となって市政の姿を変えた。自治基本条例の制定は市政を律する市民自治の精神を明確化し、また借金漬けの放漫経営にメスを入れて財政を健全化した。こうして市政運営と政策展開の基盤をしっかり構築したうえで有意義な政策を多数実行した。全国的に早かった子どもの権利条例の制定、多様化する市民活動とその参加を意識した各区まちづくりセンターの設置、道都として札幌市の都市力の活用を他に開放する試みの一つだったオータムフェスタの開催など枚挙にいとまがない。市長でいても市民としてのけれんなき生き方を貫かれた上田さんに敬意と感謝の誠をささげたい。

俵万智『生きる言葉』から

  9月は定期検診が目白押し。昨日は昭子の脳の MRI と二人のがん手術後の CT 。どれも経過観察で無事終了した。いつものことだが病院での待ち時間つぶしのため昨日は歌人・俵万智の新著『生きる言葉』(新潮新書)をポケットに入れていった。彼女曰。五七五七七の短歌は盛り込める言葉の器が小さいから思い切り言葉を濃縮して詰め込もうとする。その結果、濃縮三倍の麺つゆみたいなことになってとても美味しいとはいえないものになってしまう。短歌をつくるとき、言葉の濃度というのは非常に大事で、濃さがちょうどいいなと思えたときが完成の実感をもてる瞬間だと。短歌を志す者に対する彼女からの助言である。別のところでは、人に何かを伝えるとき、自分はいま、総合芸術である演劇的に伝えようとしているのか、たった一つのいいたいことのために言葉を紡ぐ短歌的に伝えようとしているのか、どちらかによって言葉の方向性や分量は変わってくるともいう。私のように中途半端な量の 400 字にどちらともつかぬ言葉を詰め込んでいる者には身につまされる指摘だった。彼女ならではの着眼着想は言葉を生きる言葉に変えるヒント満載の本だと感心した。庭の花→ノギク( 164 )、ネバリノギク( 165 )

憲法エッセイの片割れ

  憲法 9 条の会からエッセイを頼まれて書いた。字数は 400 字。 2 つ書いて一つを先方に送った。他は破棄してもよかったが折角書いたので以下に披露したい。→戦後占領下で幣原首相はマッカーサー元帥に命じられて松本丞譲治国務大臣を長とする憲法問題調査会に憲法草案を作成させた。その内容は従前の大日本帝国憲法とほとんど変わりがなかった。この松本草案に対してマ元帥は「国家の再建に責任を負う人々はなぜ重要問題を素通りするのか」と、国家の性格(天皇主権)を従前のままにしている、国民の参政権に道を開く地方自治がない、憲法を最高法規とする手続きがないなどと厳しく批判し、日本政府による作成を断念して自ら草案を作成した。このマ草案を基にできたのが現憲法である。自民党は結党以来「自主憲法制定」を主張しているが、当時もし日本側の自由意思で制定したとすれば内容は松本草案と大同小異だっただろう。東大・京大の権威ある憲法学者が作成した憲法案も松本草案と大差なかったことを思えばなおさらである。もしそのような憲法が成立していたら戦後の日本はどのような道を歩んだであろうか。そんな頭の体操をするのも悪くはない。  

大きな栗の木の下で…

 朝焼けの空高くうろこ雲がたなびく。赤トンボが夕闇の畑を舞ってねぐらに帰る。短くなった日差しを少しも無駄にしまいとお日様好きのトマトが懸命に頑張る。イタリアントマトはすでにケチャップに様変わり。スイカも小ズルが新しい根を下ろして二番手を育てている。はたして成熟できるか時間との競争だ。キュウリとインゲン豆は峠を越した。お疲れさま。手を変え品を変えて存分に楽しませてもらった。獅子唐辛子も同じ。チソ捲きや佃煮は珍味である。残念だったのは夕顔。自らの重さに耐えきれずタナを引きずり倒したとき根をまで切ってしまった。多くの作物が店じまいをはじめたのと入れ違いに、最中の成長株はダイコンとハクサイ。順調に育っている。昨日からは栗の採取がはじまった。畑の一角に大きな栗の木が一本ある。幹の直径は 80 ㎝ほど。栗拾いは子どものころから楽しい。茹で栗、栗ご飯、渋皮煮、キントンなど楽しみ方はいろいろ。栗がおわると森に自生するヤマブドウ狩りが待っている。ワインとジャムに。そのころになると手稲山の頂が時折白くなる。それを目安に好物、ダイコンの麹漬けにとりかかる。秋は何かと忙しい。友人たちもやってくる。

美空ひばり「一本の鉛筆」

 枕もとの小物入れを整理していたら、美空ひばりの CD が出てきた。そのなかの好きな歌の一つを久しぶりに聴いた。歌詞→「♪あなたに聴いてもらいたい あなたに読んでもらいたい あなたに歌ってもらいたい あなたに信じてもらいたい 一本の鉛筆があれば 私はあなたへの愛を書く 一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと私は書く ♪あなたに愛をおくりたい あなたに夢をおくりたい あなたに春をおくりたい あなたに世界をおくりたい 一枚のザラ紙があれば 私は子どもが欲しいと書く 一枚のザラ紙があれば あなたを返してと私は書く ♪一本の鉛筆があれば  8 月 6 日の朝と書く 一本の鉛筆があれば 人間の命と私は書く」 タイトルは「一本の鉛筆」。作詞は松山善三。名歌と思うが知る人は少ないようだ。私はかつてカラオケで時々うたった。ただし場の性質と空気を読まなければ雰囲気を暗くする。ちなみ松山千春のCDも重なっていた。好きな歌は「大空と大地の中で」。北海道らしくていい歌だと思う。私は足寄の道の駅で 3 年がかりで覚えた。

誤解を招いた縄文風土器

 庭の上り口に縄文風の土器が置いてある。タテ 30 ㎝、ヨコ最大幅 25㎝ ほどの重厚な文様入り土器。縄文土器の陶芸家でかつては浜益村(現石狩市浜益区)に住んでいた猪風来さんの作品に一目ぼれして 30 年前に分けてもらった。猪風来さんのことは 3 月ころこのブログに 2 度書いた記憶がある。さて昨日だが、通りかかった 2 人の中学生が足を止めて「すごい」と見入っていた。たまたま庭に出ていた私に「どうして縄文土器がここにあるのか」と尋ねた。全体に縄目がつき口は火炎模様ふうに外に開いている。その形状だけでなく、夏の間は陽光や風雪にさらしているので貫禄がついて、一見すれば十中八九本物の縄文土器と見紛うだろう。私はここに存在している理由を手短に説明して納得してもらった。本物なら個人では所有できない。文化財としてすべてが市町村の教育委員会の管理下におかれる。たとえば先日行った道南の福島町では無数の縄文土器が出土して町は管理に頭を悩ましているほどだ。所有できないはずの縄文土器を個人が所有している。通行人の目の保養にもなると軽い気持ちだったが、誤解を与えてはいけないので、庭の奥に場所を移すことにした。 忘れていた開花→ツユクサ(163)

チンオモウフニワガコウソ…

   読者からメールをいただいた。 9 月 1 日のブログに書いた元春さんの戦時用語とはどのようなものかということであった。まったく未整理のはずかしい覚え書きだが、パソコンから引き出し差別用語もそのままにしてお示ししよう。高校生になってから実際の言葉に置き換えたものも多少ある。不正確さは否めない。元春さんは国民学校時代は軍国少年だったそうだが、戦争に対する 善悪や好悪などの感情は交えず、自らの体験や時局のなかで接した情報などを戦争の「事実」として話してくれた。 1953 年から 1958 にかけてのころでいつも同級生の敬直君 (元春さんの甥)と 一緒に聴いた。場所は主に納屋。座って作業をするときでなければ話はできないから、冬季の俵編みの時が多かったように思う。元春さんの話しのどかには必ず教育勅語の復唱が混じっていた。私もいつしか、意味もわからないまま「チンオモフニワガコウソコウソウクニヲハジムルコトコウエンニ…」と全文諳んじて現在に及んでいる。元春さんは私たちに反戦教育をするつもりはなかったと思うが、成長するにつれ「歴史」の問題として戦争の本質を考える材料をたくさん与えてくれた恩人である。 *       *   * 元春さんから教わった戦時の言葉 太平洋戦争、大日本帝国、大東亜共栄圏、大東亜戦争、日の丸、君が代、国体、天皇陛下、天子様、現人神、神国日本、神風、教育勅語、御真影、皇居遥拝、天皇陛下万歳、皇軍、五族協和、満州国、満蒙開拓団、真珠湾攻撃、沖縄戦、広島原爆投下、ピカドン、長崎原爆投下、函館・釧路空襲、戦艦ミズーリ、ポツダム宣言、無条件降伏、玉音放送、治安維持法、憲兵、戦陣訓、非国民、大本営発表、作戦参謀、陸軍・海軍、海軍兵学校、陸軍士官学校、関東軍、陸軍第七師団(旭川)、北京、南京、台湾、露営の歌、愛馬行進曲、加藤隼戦闘隊、海ゆかば、出征、出陣、戦地、占領、現地調達、特攻隊、軍服、軍帽、軍刀、軍馬、大砲、玉砕、侵略、進軍、転進、突撃、歩哨、英霊、鬼畜米英、 ABCD 包囲網、満州事変、盧溝橋事件、張作霖、チャンコロ、支那人、チョン、強制連行、贅沢は敵、欲しがりません勝つまでは、鉄カブト、七つボタン、一億総動員、一億火の玉、徴兵、赤紙、召集令状、兵隊検査、勲章、背嚢、軍用飯盒・水筒、軍用スキー、日の丸弁当、さ...

かく過ぎるたる秋の一日

 台風 15 号は大きな災害をもたらして関東の東海上にぬけた。北海道は概していい天気であった。スイカとプリンスメロンが終わりに近づき、ダイコンとハクサイが葉を大きく広げはじめると畑は一気に秋を迎える。昨日は朝からその草取りに精を出した。三番手のトウモロコシは実りだすとキタキツネが待ち構えている。彼らはもう 3 分の1ほどは食べたようだから「ここらで止めなさい」と丁寧にネットで囲った。大量に採れるインゲンや獅子唐は採取して近所にもオスソワケ。採れた野菜類を無駄にしないよう火を通して保存するなど何種類も手をかける。ここまでで午前中が終了。午後はインゲンとナスにさつまあげを加えて煮つけをつくったあと少し昼寝。最後の枝豆とスイカに舌鼓を打ちながら昭子と3時のおやつを終えるとすぐ夕食の準備にかかる。鶏肉を加えた六目ご飯によりをかけた。疲れはてて午後9時にベッドに潜る。枕もとの永田和宏『人生後半にこそ読みたい秀歌』をめくると、「大学と原稿書きと家事炊事といづれか愉しき 家事炊事」(島田修三)という句が目に飛び込んだ。前の二つはもうなく、家事炊事+畑の愉しき私の今日の一日が終了した。

福島町議会の諮問会議に出席

 先月末道南の福島町議会に行ってきた。同議会は道内のみならず全国の自治体議会のモデルとなる改革先進議会で、このブログでもたびたび紹介してきた。 同議会が議会基本条例を制定して十数年、当初から町民参加の議会基本条例諮問会議を設置して、基本条例に定めた数十項目の議会改革を毎年点検し、それを受けて議会は改革を続けている( HP で「議会だより」を参照)。私は改革意欲が衰えない同議会の熱意にはいつも敬服しているが、これほど努力しながらも前回の選挙は無投票になった。諮問委員会の設置は当初から議員のなり手不足対策にもなると期待されていたが、無投票が現実になったことに危機感を強めた議会は、あらためて諮問会議委員の役割を見直している。すでに委員の人数を増やしたことに続いて、議長の諮問に答える従来の活動に加えて、委員の自由な意思・活動・提案などを重んじた、いわゆる「議会モニター」的仕事を追加しようと協議している。今回の諮問会議はこれを議論した。私は諮問会議の顧問を仰せつかっているが、諮問会議+議会モニターの福島町方式ともいうべきなり手不足対策の成り行きを大きな期待をもって見守っている。 庭の開花→シモツケソウ( 157 )、シユウカイドウ( 158 )、ミズヒキ( 159 )、ハギ( 160 )、ツリフネソウ( 161 )、キツリフネ( 162 )

巨大夕顔に元気をもらう

 気象学者をして「日本は熱帯」といわせるほどの気候変動が進み、かつて教わった地学の定説が覆される実感をますます強くした夏であった。昨日のニュースでは伊勢志摩が定番のイセエビが東北で豊漁と報じていた。 9 月になっても本州の猛暑、猛雨はまだ終息しないが、それでも札幌では 25 度前後まで下がりようやく秋の気配が漂いはじめた。晴れた日の日中の空は高くなり、朝晩の庭と森では秋の虫たちがかまびすしくオーケストラを奏でている。庭のシュウメイギクが花をつけ、畑には赤トンボが舞いはじめた。それにしても今夏の畑は異様であった。作物が一番の成長する 6 ・ 7 月の雨不足に以降は高温も加わって日々対処に追われた。もし毎日の水やりを怠ったら多くの作物は枯死したに違いない。努力した甲斐あってスイカ、プリンスメロン、トマト、キュウリ、トウモロコシのデキはよかったが、カボチャはほぼ壊滅状態。大好きなインゲンは一時はあきらめたがもちなおしたのは嬉しかった。畑の師匠・樋渡芙美子さんを偲んで春に種をまいたユウガオだけは、手をかけずも長け 70 ㎝、直径 20 ㎝にまで悠々と成長した。日々私に元気をくれ畑に引き寄せてくれる。庭の開花→シュウメイギク(白 155 、ピンク 156 )

戦争イメージとアルミの箸

 ブログ中断中に 8 月 15 日が過ぎた。その前後に「戦後80年の節目」にちなんで「伝承」に力を込めて「戦争」の何たるかを問い返すメディアの優れた企画が多数あったことに好感をもった。私は終戦時は 2 歳に満たず戦争の実体験はないが、戦争の余韻を引きずった欠乏の戦後体験をもっている。 1949 年に小学校に入学した時に背負ったのは、戦後 4 年も経過していたのにランドセルではなく「背嚢」 (兵隊が行軍などで背負う荷物入れ) であったし、冬の防寒用にかぶったのはボロ切れと綿が半々の「防空頭巾」 (戦後もボウクウズキンと呼んで用いていた) であった。近所の親戚の神原秋義おじさんは、復員するとき唯一持ち帰った手製の箸を生涯使用した。酷寒のシベリア抑留中、ソ連兵からもらったアルミ塊を石で叩きトロッコに轢かせてつくったという。私の戦争イメージの原点で現在にいたるも毎日このアルミの箸を想い起こす。中学生のころおじさんの弟・元春さんが納屋でしてくれた戦争・戦時の話は私の戦争イメージを増幅させてくれた。大好きだった元春さん追憶の一環としてメモに残した戦争・戦時の言葉は 200 項目に達した。これはパソコンに入れてある。