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ダジャレ川柳の後始末

 今日で 11 月は終了。師走の定番の行事の一つが大掃除。普段から比較的まじめに掃除し、とくに汚れがちなキッチンには心しているから大がかりなことはやらない。だが書斎だけは別。ほとんど仕事をしていないのに積み重なった書類や本などはいまにも崩れそう。とくに壁にピン止めしたメモ類は美観を損ねている。そこで壁から奇麗にするのだが、まず処分するのは川柳まがいの思いつきダジャレを記した多数の付箋。比較的強く心に残っている 2 , 3 を残してあとは捨ててしまう。今年残した 3 つ。①除雪あと 最初に通る キタキツネ→オマエのために雪かきしたのではないのに…。家に戻って庭を見たとき可笑しさがこみあげてきた (1月)。 ②若づくり 優先席で 下を向き→本当は立派な高齢者ですが、若いくせ優先席に座っていると思われたくないので…とある乗客の思いを勝手に想像して… (4月)。 ③ブログ絶え いまでは何を する人ぞ→市民のための政治をいうなら議員の仕事や議会の日々の様子をブログに書いてほしいとお願いしたのだがあれから早2年… ( 4 月) 。今朝は早起きして書斎の掃除をすませ、残した3つをPCに保存してからこのブログを書いている。

人より先に酔いつぶれない

 この時期、忘年会の誘いが舞い込む。差し障りがないかぎり参加する。けれども私は「酒という文字をみるさえ嬉しきに飲めという人神か仏か」 (土井晩翠?) と想うほどのサケノミではない。私は自分の学問を自嘲して「居酒屋自治体学」という。若いころから恩師や研究者、長・職員・議員などの親しい仲間と酒を飲んではいつも「自治体」について侃々諤々議論してきた。酒がすすんで柔かくなった面々の頭から発する情報・知見・ヒントから受けた刺激ははかり知れない。忘れないよう帰宅の電車やタクシーのなかでメモ書きすることもしばしば。けれども人よりも先に酔いつぶれたのでは話にならない。そこで美味しく飲めて酔いもほどほどの体にあった酒を探した結果、行き着いたのはブランデー。だが普通の居酒屋にはおいていないので、当時はめずらしかった焼酎を代用した。ブランデーの飲歴は、VSからはじまって、収入が増えるにつれVSO→VSOPと格があがり、北海道にUターンしてからはもっぱら池田町のスプレンダーXO。酒の味だけでいえば本当は日本酒もいい。きりたんぽ鍋をつつきながら秋田の銘酒「大吟醸まんさくのはな」が飲めたら…。  

私の大切なカルタたち

 数日前、道新の「卓上四季」が、「いろはかるた」には高市政権にぴったりな文言があると言葉遊びをしていた。そのことが心にあったせいか、大事にしている 2 つのカルタのことを思い出した。『北加伊道カルタ』→北海道には豊かな自然、先人が残した知識・文化・産業などの物語がたくさんある。伏島信治さんたちの北海道カルタ会が「北海道の扉を開き、遊ぶたびに北海道が好きなるカルタ」をつくった。絵札も楽しいが読み札の解説も勉強になる。ちなみに最初の札「赤い人 かがり火の下 道路 みち 拓く」。明治時代赤い服を着せられた囚人の強制労働で北海道の道路が拓かれた。『美深の郷土かるた』→子どもたちに町の歴史に思いを馳せ郷土意識を育ててほしいと、美深町郷土研究会が知恵を集めて制作した。「いもかぼちゃ 美深育ちが 味一番」。盆地で寒暖の差が大きな美深産のかぼちゃの美味は私も忘れない。 2 つとも 2007 年作。まちおこしの方法はいろいろ。カルタづくりも有力な一つに加えてほしいものである。 2008 年。福沢諭吉の出生地、大分県の中津市に自治基本条例の講演に行ったとき『諭吉かるた』に出会った。これも立派なカルタで大事にしている。

潰えたジグソーパズルの夢

 昨日書いた壁掛け北海道地図のことでもうひとつ思い出を書きたい。いまは亡き高校の同級生・原田宣克君は北海道観光の企画や観光グーツを開発する会社を経営していた。時々会っては放談する飲み友達で、あるとき私は酔った勢いで1つの提案をした。→大勢の観光客が本州からやってくる。観光客は土産品を買う。その一つとして、あるいは自分の北海道旅行の記念になるジグソーパズルを制作・販売してはどうか。観光客は広い北海道の各地を回るだろう。その足跡をしっかり北海道地図に残し、また次なる北海道旅行の夢を掻き立てるためにも、壁飾りにもなるジグソーパズルは面白い発想ではないか…。話は弾んだ。→ 1 市町村 1 ピースで合計 212 枚。数が多いと思えば 14 支庁ごとに色分けしてもいい。持ち運びできる大きさは B4 が限度だが A4 でも市町村の輪郭をそこなわないだろう。行った市町村と未知の市町村を区別するため、付属品として白地のピースをつければいっそう個性的に表現できる。観光だけでなく子どもたちの遊びやまちづくりにも活用できるだろう。 2 人は意気投合し彼の心は大きく動いた。けれども間もなく帰らぬ人に…。夢は儚く潰えた。  

居間の壁の北海道地図

 わが家の居間の壁に 60 万分の 1 の北海道地図が架かっている。平成の市町村合併前の 212 市町村(現在の市町村数は 179 )が精巧に描かれている。あるとき道新の記者から地図に印されている赤丸の由来をたずねられた。要するに自分の足で訪問した市町村を赤マジックで囲っただけのこと。数は 100 を超えていたと思う。特別な意味はないが事始めは学生とのやりとりだった。 1990 年代の末ころ、何年かに一度は教養部の講義を担当していた。一年生の出身地は本州と道内がほぼ半々。そこで若き学生の北海道認識を知る一助として、全市町村名(えりも町以外は漢字)を記した一覧表を配布してフリガナをふってもらった。当時は、たとえば「椴法華」など難解な読み方が多かった。2度試みたが正解はわずかだが本州出身者のほうに多かった。道内組は広い北海道の隅々にまでまだ関心が及ばないが、本州組は何かに強い関心や興味を抱いて来道するのだろうか。ともあれこの結果を学生に伝え、同時に、今後出会う市町村を地図に記していつも目に触れれば、北海道イメージが豊かにふくらんでいくだろうと進言した。以来自分も試み人にも奨めた。大きな効用があった。

10数年ぶり庭にクマゲラ

 庭にクマゲラがやってきた。昭子が最初に見つけ大声をあげた。庭の木々がすっかり葉を落とし、地面は白一色だから黒いクマゲラは目立つ。それに動きが速いからいっそう目につきやすい。ほんの数秒間のことであった。庭の南側のカツラにとまったかと思えばすぐに西側のナナカマドに移動、そして森に消えていった。私がクマゲラに出会ったのは長い人生でたったの 3 回。そのうち 2 回はこの庭。この前飛来したのは 10 数年前でこんな市街地で出会えるなんて想像もしていなかったからいたく感動した。一瞬のことで姿ははっきりとは確認できなかったが、キャッキャッという鳴き声は覚えていたからすぐクマゲラとわかった。最初に見たのはオホーツクの小清水町。仲間と「オホーツクの村」と称する森づくりに勤しんでいたアニマルドクターの竹田津実さんが森を案内してくれたときのこと。「直径が 20 ㎝に成長すればアカゲラが営巣する。それが間もなく見られるだろう」と話されたとき、なんとアカゲラならぬクマゲラがけたたましく鳴いて飛来したのである。アカゲラに魅せられて越してきたことをはじめわが家はゲラ類と縁が深い。コゲラも時々やってくる。

堀元知事、再び熱く語る

 今年3 月 5 日の堀達也元知事の講演のことはブログに書いたが、 11 月 20 日に再び元気な姿を拝見してきた。「放談『北海道を語る』」と題した堀講演会。メインのテーマは「北海道新幹線」であったが、主催者の要望も受けとめて半分は泊原発問題にも言及された。どちらも堀知事時代の道政と深いかかわりがある。前者については北海道新幹線の札幌延伸の遅れを懸念され、推進する政治力の不足を嘆かれた。後者については泊 3 号機を容認した苦渋の選択について話された。 1990 年代末は地球温暖化対策としてエネルギー政策を全般的に見直す風潮が国内外で強まった。原発に対する国民意識の変化、自然エネルギーへの期待の高まり、電力売買の自由化の開始など、エネルギー情勢は大きく変化しようとしていた。そのような情勢だったから 3 号機稼働をめぐって道民は大きな不安を抱いていた。そうした空気を読んで私も北大法学部の同僚有志と「泊原発モラトリアムに関する緊急アピール」を行ない、流動的な状況を見極める必要から 3 号機同意はしばらく思いとどまるよう知事に申し入れた(全文は「北海道自治研究」北海道地方自治研究所 2000 年 5 月号参照)。 *       *   *   堀さんは結果として 3 号機に同意した。だが、諾々と同意したわけでなく、 2 つの条例を制定して、原発問題に向きあう北海道の精神を喚起したのである。原発を「過渡的エネルギー」と位置づけた(したがって将来は脱原発社会になる)、いわゆる「省エネ・ 新エネ条例」( 2001 年)と、道外からの 核のゴミ(特定放射性廃棄物)の持ち込みの拒否を宣言した条例( 2000 年)がそれで、この日も堀さんは制定当時の熱い想いを話された。堀さんはきっとこの 2 つの条例の精神をふまえて、関係者がしっかり知恵を絞れば、泊 3 号機の再稼働問題と核ゴミの最終処分地選定問題は新たな展望が開けると確信しているに違いない。私もその想いを強くした。仮に道が 3 号機の再稼働を容認するなら、最低限廃炉時期の明確化を条件にして脱原発への確かな道筋をつけるべきだろう。最終処分も条例の考えを発展させて、外からの持ち込みではない、いわゆる域内処理(各供給主体のサービスエリア)の原則に立脚した処分方法を国に提案すれば新たな道が開ける。堀さん...

半端ないあいの里の雪事情

 夏冬に時を譲りて秋は去り。二十四節季でいえば 11 月は立冬と小雪。けれども早くも一昨日は一気に 40 ㎝超えの大雪に見舞われた。わがあいの里は札幌市内で最も雪が多いところ。石狩湾に発生した低気圧が東に進む通り道にあって大雪をもたらす。市の中心部からタクシーに乗ればだれもが実感するだろう。篠路を越したあたりから急に積雪が増し、あいの里につくころには北極のような別世界になる。だから雪対策には半端ないエネルギーを強いられる。まず市の除雪の後始末。奇麗に雪かきを終えた後に市の除雪車が押し付けていく大きな雪の塊の処理に毎度苦労する。玄関先や歩道の除雪のために多くの家々は業者と個別に契約を結ぶ。 12 月から 3 月まで約 10 回排雪。契約額は約 4 万円。それでも雪が多くなる 2 月は生活に種々困難をきたすからパートナーシップ(市と町内会が費用を折半して市道を排雪)を活用する。そのために一戸当たり年 4200 円支払う。それでも窓を塞ぐ落雪の捨て場がないから、わが家なりの狗肉の策。雪まつりと称して庭に巨大な雪ダルマをつくる。この先何年かして雪かきが できなくなったとき、意に反してあいの里を去ることになる。

ナキウサギのカレンダー

 毎年 11 月の半ばを過ぎるとさまざまなカレンダーで壁がにぎやかになる。愛らしい子どもの表情を描いたいわさきちひろの大型カレンダー、山と植物の写真家・梅沢俊さんの四季のエコカレンダーなどなど…。それぞれに趣があって目を細める。なかでもナキウサギ・ファンクラブ(市川利美代表)が作成する月めくり写真カレンダーは格別な想い入れがある。ナキウサギは主に十勝に生息する小さな希少生物。遠い昔氷河が運んでできたガレ場に生息するので「氷河期の生き残り」ともいわれる。いまから 30 年前、道の士幌高原道路の建設でナキウサギは生息地を失う危機に直面した。当然工事差し止めの運動が起こる。時の堀達也知事は道政改革を果敢に進めて「時のアセスメント」を行ない、不要不急の大型事業をいくつも中止した。士幌高原道路も中止対象になりナキウサギは救われた。この運動のために市川さん、福地郁子さん、昭子たちがナキウサギ・ファンクラブを結成した。会は 4000 名弱の会員を要して現在も続いており、カレンダーの作成は主要な事業の一つとなっている。昭子は多数の友人にお歳暮としてこのカレンダーを贈り、私はそのあて名を書く。

議会フォーラムを終えて

 15 日は 10 月 11 日にブログで予告した議会技術研究会主催の「議会フォーラム 2025 」を開催。テーマは「議会は住民に何を伝えているか」で、議会の優れた広報を読んで、広報のあり方をふくむ議会改革の現状を検証した。議会の担当者に依頼すれば遠慮がちな報告になると想定して、あえて研究会の運営委員が第三者の目で栗山町、芽室町、福島町、浦幌町の「議会だより」を読み込んで、優れた議会改革と議会運営のファクトを報告した。一見は百聞にしかず、関心ある方はぜひ各議会の HP にアクセスして自分たちの議会と見比べてほしい。これらの小規模な議会はどこも、約 10 人の議員と 3 人前後の職員という少ない陣容をやりくりしながら、年 4 回(芽室は毎月)、各約 30 頁の広報を発行し全戸に配布している。真に住民のための議会をつくろう、その議会を住民にしっかり伝えようという関係者の熱意がそれを支えている。私たち札幌市民・道民には議会から一片たりとも紙情報が届くことはない。大きな議会はどうして住民を見くびるのだろう。議員は痛みを感じないのか。改革先進議会と遅れた札幌市議会・道議会との落差をあらためて痛感しながら帰宅した。  

きりたんぽに想いを馳せて

 初冬のこの時期避けて通れない料理がある。秋田の代表的な庶民的郷土料理きりたんぽ鍋だ。とはいえ私が本物に出会ったのは 20 年ほど前のこと。秋田市で開催された森林交付税創設をめぐる首長の全国集会に招かれたときのことで、日程終了後の懇親会の料理がきりたんぽ鍋だった。だが正直いってあまり期待しなかった。というのは学生時代に一度だけ経験したきりたんぽ鍋のイメージを引きずっていたからだ。秋田出身の先輩が母親手製のきりたんぽを馳走してくれたのだが、具の入らない味噌汁仕立てのきりたんぽ鍋だったからさして美味しいとは思わなかった。貧しい学生の下宿生活のことで無理もないが、これが私のきりたんぽイメージになっていた。だがこの懇親会で従来の認識は一変した。料亭の女将が目の前で、きりたんぽ鍋の由来を話しながら、比内地鶏、マイタケ、さきがき牛蒡、ネギ、セリ、春雨、特性だし汁と手際よく煮込む。そしてできあがった鍋のまろやかな味と舌触りに驚嘆させられた。その場でレシピをメモし、翌年からわが家の料理メニューに加えた。クマ被害の減少と先輩の健勝を祈りつつ、今年もきりたんぽ鍋に想いを馳せている。

大病から2年経たいま

 私たち夫妻が同時期・同病名・同病院・同主治医のもとで仲良く?がん手術してからちょうど 2 年になる。幸い転移もなく生活のリズムを取り戻し年齢相応に過ごしている。大手術による体力の低下は否めないが、病気というよりは齢のせいにして受け入れている。いまの私は昭子が元気に週 2 回のディサービスに通えているのが嬉しい。ディサービスに行く当初の目的は入浴だったが、いまは活動範囲がひろがり、カラオケや習字などもやっている。家でも練習に余念がない。 9 月には習字の展覧会があり「努力賞」をいただいた(金賞 1 人・銀賞 2 人・努力賞 3 人)。 50 人の生徒のうち利き手でない左手で頑張っているのは昭子ひとりというのが理由らしい。なかなかの出来栄えだと思った。 12 月には感謝祭という催しがあって昭子は絵本を朗読するという。脳内出血発症前は時々絵本の読み聞かせをやっていたが、いまやれるかどうか心配らしく家で時々練習している。出し物は『月夜のみみずく』というアメリカの絵本で、父さんと小さな女の子が夜更けにワシミミズクを探しに行く物語。私たち夫妻の課題→小さなことであれ何か目標をもってハリのある生活を心がける。    

官僚制と闘った岡田彰さん

 今朝起きてカーテンを開けると外は白銀の世界に染まっていた。これで冬を迎える覚悟が決まる。これから来年 3 月まで、「冬来たりなば春遠からじ」と念じて、雪景色の向こうに春一番のスノードロップの開花を想起しながら除雪に精を出す。けれどもこの一週間、私の心は晴れることはなかった。友人の岡田彰さんと季節の移ろいに想いを寄せたメールの交換はもうできない。毎年送ってくれた美しい富士山や松下圭一先生が眠る南禅寺の「みんなの墓」の写真が届くことももうない。谷家茂さんから岡田さんの訃報が届いた。私とは歳がほぼ同じで 50 年来の付き合い。共通の先輩や友人が多く、一時は職場をともにし、何かにつけ心を通わせた。岡田さんは官僚制を研究する行政学者で、昨年 6 月には『官僚制の作法』(公職研)を上梓した。前著の『現代日本の官僚制の成立』とあわせて、制度を形骸化させる官僚(制)の制度運用技術を、資料とファクトを駆使して実直に看破する。岡田さんは大言壮語を慎んで官僚制と厳しく静かに闘った真の行政学者だった。主客が転倒して「政治主導」にほど遠い今日の政官関係の歪みをただす時宜にかなった高著はお見事だった。合掌

最後の花はモッテノホカ

 今日から 11 月。先週はあいの里にも初雪があっていよいよ冬到来。だが畑と庭の冬支度は雨続きですっかり予定が狂った。それでも雨の合間にダイコン、ビーツ、サツマイモを収穫し、あとはハクサイを残すのみとなった。 10 月の中旬から低温の日が続くので、恒例のダイコンの麹漬けをした。美味しいが長持ちしないので一度に 5 キロしか漬けられない。そんなことからこれから 3 月まで 3 回ほど漬ける。畑の次は庭の冬囲い。胃の全摘手術からちょうど 2 年たつが、体力の低下を考慮して休み休み作業をしている。真っ赤なナナカマドと透き通るような黄のカツラの落葉を肩に受けての作業はなんとも心地よい。おもわず「センス・オブ・ワンダー」( R ・カーソン)を想起する。今年も心ゆくまで楽しませてもらった花も終わり。いま咲いているのは最後の花「モッテノホカ」というキク。この面白い名のいわれは知らないが、藻岩山に住む親友の福地郁子・白夫妻からかつていただいた。小鳥たちも庭のバードテーブルに集合しはじめた。この屋根は森のクマザサを編んで被ったもの。朽ちてきたので先週新調した。これで 3 年はもつはず。最後の花→モッテノホカ( 172 )